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1996年、平成8年の話し。
当時小学6年生だった橋本さんは、自室のベッドに寝転びながら、
『カラスの死骸はなぜ見あたらないのか』
という文庫本を読んだ。
夏休み中の昼下がりのことだ。
その本は、カラスの死骸は、反物質と干渉して対消滅を起こし、この世から消え去ると論じたトンデモ本だった。
(対消滅の真偽はともかく、僕も今までカラスの死骸は見た事が無いな)
俄然興味が湧いた橋本さんは、カラスの死骸を探しに、自転車に乗って家を出た。
橋本さんの自宅は、群馬県前橋市郊外の住宅街にある。
さすがに町中に都合良く、カラスの死骸など落ちているはずはない。
なので橋本さんは、自宅から約3㌔離れた、赤城山の裾野の森を目指す事にした。
カラスが棲み家とする森を探索すれば、案外簡単に、その死骸が見付かるだろうと思った。
真夏の炎天下、Tシャツの襟周りに汗を滲ませながら、3㌔の道のりを軽快にペダルを漕いだ。
やがて森に到着し、未舗装の林道に進入した。
と、頭上でカラスの鳴き声が響いた。
仰ぎ見ると、数匹のカラスの黒い鳥影が、真っ青な夏空を際やかに横切った。カラス達は皆、橋本さんを導くかの様に、森の同じ方向へ飛び去って行く。
橋本さんは、林道の脇に自転車を停めると、先程のカラス達を追って林道が面した樹林へ分け入った。
蝉の声が喧しい、緑濃い夏木立だ。
蝉時雨に混じり、行く手の彼方からカラスの鳴き声が聞こえて来る。
それを辿って、自分の腰丈もある草藪を掻き分け歩いて行く。歩一歩とカラス達の鳴き声が近付き、林道から約100㍍進んだ先で、木々が途切れて開けた野原に出た。
その野原の中心に、黒々と蟠るカラスの一群を認めて、橋本さんは畏怖と驚愕に目を剥いた。
ギャアギャアとけたたましく鳴き交わすカラスの集団は、およそ50羽だ。幅95㌢、長さ195㌢のシングルベッド程の範囲にたむろし、互いに密着した漆黒の羽毛の輪郭が一つに溶け合って、その一画だけが目くらましの闇のベールで覆い隠された様相だ。
(これだけのカラスが集合している理由は、その場所に何か動物の死骸があって、それに群がっているのか? まさか僕がカラスの死骸を探しに来たのを察知して、仲間の死骸を隠しているとか?)
そう憶測した橋本さんは、カラス達が織り成す闇のベールに隠蔽された物体を、暴き出したい衝動に駆られた。
カラス達は、そんな橋本さんを牽制する様に、揃って彼の方に睨みを利かせて鳴き頻る。「これ以上深入りするな、さっさと帰れ」。そんな風に、橋本さんは脅かされている気がした。
その鋭い眼光に気圧された橋本さんは、束の間、尻尾を巻いて逃げ帰ろうかと逡巡した。
だがやはり闇のベールに包まれた謎の物体の正体が知りたくて、何よりカラス達の威嚇に負けるのが癪で、橋本さんは強硬手段に打って出た。
威勢良く両腕を振り上げ、「ワァーーッ!」と雄叫びを発しながら、カラス達に猛ダッシュで突っ込で行った。
その突撃に追い払われて、カラス達が一斉に上空に飛び立った。
闇のベールが一挙に散らされ、手品師が遮光の黒布を取り去る様に、その下に包み隠されていた物体の正体が暴かれる。
カラス達を追い立てた橋本さんの足元。そこに現れたのは、仰向けに倒れた一人の男性だった。会社にいるはずの、グレーのスーツを着た橋本さんの父親だった。
「父さん⁉︎ なんでこんな場所に⁉︎」
信じられない光景に絶叫した橋本さんは、慌てて仰向けの父親の傍に片膝を立てて座った。
手首の脈を取ったが、反応がない。
橋本さんは急いで林道に駆け戻り、近くの民家まで自転車を飛ばし、住民に助けを求め、救急車と、事件の疑いもあり警察が呼ばれた。
「結局、父の死因は急性心筋梗塞で、事件性はありませんでした」
現在40歳になった橋本さんは、当時を回想して語る。
「ただ不思議な事に、父の会社の同僚達は、父がオフィスを抜け出し森に向かった事に、誰一人気付いていませんでした。皆デスクワークに集中していたからだろうという結論になりましたが」
当時は今と違い、防犯カメラやドライブレコーダーなど普及しておらず、会社から森までの父親の足取りは一切掴めなかった。
「私自身は、父の死体は、あの場所に忽然と現れたのではと考えています。だから森まで移動した形跡が微塵も無いのです。いわばカラスの死骸の対消滅とは反対の、対発生です」
橋本さんの父親の名前は、漢字一文字で『雅』と書いて、マサシと読んだ。
父親の死後、雅の字には『カラス』の読み方があるのだと、橋本さんは知った。
その意味では、橋本さんは望み通り、森でカラスの死骸を見つけた事になる。
「要するにシュレディンガーの猫だったんです。あの森でカラスの群れに遭遇した時、私の前には二つの未来が重なって存在したんです。父が森で死ぬ未来と、方や無事に会社にいて生存する未来です。私がカラス達を追い払い、その闇のベールを暴いたせいで、父が森で死ぬ世界線が採択され、カラス達の下から父の死体が顕現したのです。もし深入りせず、闇のベールを暴かずに帰っていれば、父の死体は観測されず、無事に会社にいた世界線で生存できたのです。
私が悪戯にカラスの死骸など求めたから、天罰が下ったんです。カラスは神の御使いですからね」
触らぬ神に祟りなしです、と橋本さんは自嘲気味に零した。
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