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余熱の責苦
東寺の近くに羅生門跡があることを知らず、古色蒼然という言葉の似つかわしくない仏塔を見物したきり、二条城へと向かってしまった。霧雨のなかに虹が架かる絶景に胸を打たれはしたのだが、ビジネスホテルにチェックインしてから、見忘れたことが、なんとも惜しい気がした。
平安朝を舞台にした小説を書いている以上は、是が非でも羅生門跡を見なければならなかっただろう。
シャワーを浴びて、コンビニで買った弁当を机の上に乗せる。おでんを買いたい気持ちもあったが、ホテルまでの道のりのことを考えて止した。真冬の京都の寒さは、身体の内奥で塊となって、一向に溶ける気色はない。
寝支度を調えているあいだも、あのことが忘れられない。コンビニでは、アルコール類に目もくれず烏龍茶を手にした。それは、健康上の配慮ではなく、過去の過ちに起因している。気が大きくなると、なにをしでかすか分からない。なぜ、あのようなことを書いてしまったのだろうか。
イベントの運営側から、開催日前日の宣伝のお願いが、一斉送信メールとして届いたが、いまはもうSNSの類いはしていない。いや、鍵をかけている裏垢だけがある。しかしそれは閲覧用というより、もう、余熱が冷めていないだろうかと確認するためのものだ。
いまもどこかで、あの投稿のスクリーンショットは出回っていることだろう。そしてそれは、どれだけ成功をおさめたとしても、ネットの海に撒かれた機雷として、目の前に立ちはだかり、少しでも進もうとすると、瞬く間に沈没させられてしまうに違いない。失ったものは、あまりにも大きすぎる。
SNSから投稿サイトへと火は燃え移り、ネット上で作品を発表できる場所はなくなった。それでも筆を折ることはできず、ペンネームを変えて本を作り、ただでさえ厳しい家計から高い交通費を捻出し、京都にまで来たのである。
夜の分の抗うつ剤を飲んでしまうと、副作用として眠気がやってきた。あれから一年が経っているが、この薬なしには生活をすることができない。
ブースの設営をしているあいだも、周りからの視線にビクビクとしてしまう。むかしのペンネームを知っているひとなんて、何人もいるし、顔と名前をひとくくりで覚えられてもいる。あの投稿のことを吹聴されたらどうしよう。
こんな気持ちのなかで、イベントに参加するのは、苦痛に過ぎない。それでも、創作を止められなかった、自分の作品を読んでもらいたかった。だけどその先にある夢は、諦めざるを得なくなった。
プロの作家になりたいという夢は、あの日、潰えてしまったのだ。いつか、あの投稿をした人物だとバレてしまえば、こういうタイプの存在であるとスティグマを刻まれて、批判を受けることになり、周りからの信頼も失墜し……三日天下とでもいえる境遇になるだろうから。
自分の悪行を知らないであろうひとが、新刊を手に取ってくださった。お金をいただくことに罪悪感を覚えてしまう。あとあと後悔されはしないだろうか、SNSで罵詈讒謗を書かれるのではないか、そういう不安に苛まれてしまう。
楽しくない。それが正直な気持ちだ。これから先、その気持ちが創作欲を上回ったならば、もうイベントに参加することも、本を作ることもしないであろう。しかしそのとき、なにを支えに生きていくことになるのだろうか。
撤収をしているあいだも、そんなことばかりが頭に浮かんで、いまにも膝から崩れ落ちそうだった。
この一篇の長篇小説を書き終えてしまえば、自分の一生にひとつの区切りがつくことであろう。死の予感と新生の兆しが混ぜ合わさったなかで書く、いままでの人生を振り返った私小説。だれに読ませるでもない一作だからこそ、筆が止まらないのだろうか。
モーニングを注文して、喫茶店で執筆をしている。毎日、このルーティンを変えていない。夕方から夜にかけて眠り、深夜から午まで創作に打ち込む。生活費は、いまは実家から送られてきている。
こんなことを誰かに告白すれば、白い目で見られるかお叱りを受けることだろう。だけど、抗うつ剤だけではなく、パニックを鎮めるための頓服まで処方されるようになったいま、働くことは困難になっている。
ようやく、高校生のときのことを書き始めることができた。文芸部に入り、創作に熱中していった、あの頃のことを振り返ると、切ない気持ちになる。あの一件への後悔が、強まっていく。ここ数日、窓の向こうにはいくつもの傘が見える。
「いつも、なにをお書きになっているんですか?」
そう訊かれたのは、二週間前のこと。ぶっきらぼうに応えたのに、彼女はどんどんとこちらの領域へと踏み込んでくるようになった。
「進み具合はどうですか?」
ありのままに答える。
「あまりよくないようです」
しかし今日は、こんな言葉までかけられてしまった。その言葉が、家に帰ってからも、いつまでも耳の奥で残響していた。
「完成したら、わたしにも読ませてくださいね」
制服の帽子から零れている彼女の髪は、この長篇のラストにおいて、このように形容されることだと思う。陽の光がよく似合う、切ないくらいに眩しいブラウン――というように。
一枚あたり三十字×四十行の、計百八十枚の長篇小説を、三つに分けて茶封筒に入れて、いつものように喫茶店へと向かった。よく晴れた日だった。死より新生を選び取ったことが、正解だったと決めつけることができるほどに。
正直に、自分の半生のことを書いた。
そして、この茶封筒を机に置いて、喫茶店を出ようとした。これきりもうここへは来ないと決めていた。それなのになぜ、彼女は、告白の言葉を用意していたのだろうか。
〈了〉
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