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だめだ。疲労とストレスで、俺の劣情もわけがわからないほど膨らんでいる。ただでさえ過労で限界なのに宵さんに嫌われたら生きていけない。
俺は変なことを口走る前に、煙草を銜えて物理的に話すのを阻止し、同じく疲れ顔の宵さんをいい人ぶって労る。
「案件抱えすぎじゃないですか、浅桜さん。俺みたいな新卒ペーペーの指導もして、プロジェクトリーダーも任されるって人間やめてますよ」
「んはは、私ってば仕事できちゃうからねー」
「笑い事じゃないっす。過労死寸前ですよマジ」
本気で身体を心配して言ってるが、社畜気味な宵さんの耳は言葉を通過させるだけで留めてはくれない。
彼女の小ぶりな耳朶からピアスが覗いた。小さいひと粒のダイヤで、飾らない宵さんにはピッタリの代物。
「ん? なに、じっと見て。ごみでもついてる?」
「ついてませんよ。ピアス見てました」
「あ〜……ピアスね。京極くんも、両耳にひとつずつつけてるじゃん」
「お揃いっすね」
「ふは、おそろいだねぇ」
自然に笑う宵さんは、間違いなく年上の女性。
俺の頭一つ分小さくて、力もなくて、よく躓いて転びそうになってるけど、ときどき微かに大人の女性であることを知らしめる。
「京極くんの苗字、京極夏彦先生を思い出すね」
「ミステリー読むんすか?」
「大学生の時は読んでたよ。今はもうビジネス書ばっかりで全然だなぁ」
他愛ない会話をしつつも、煙草を吸い終えた彼女が仕事に戻ろうと凭れ掛かっていた壁から背を離した。
あーあ、行っちゃう。さびしい。
「浅桜 宵さん」
フルネームで呼び止める。
ぴたりと足を止めた宵さんが、パンプスの先を俺の方に向け振り向いた。
「なにかな、京極 暁くん」
初めて下の名前を呼ばれ、胸が忙しなく動く。
「彼氏って、いますか」
「……いますね」
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