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少年が病院を去ると、明るく和やかな雰囲気も夢のように霧散した。
現在、使われている部屋は一室のみ。叢雲朔夜というアルファの男が入院していた。
朔夜はキングサイズのベッドの上であぐらをかき、腕組みをしている。しわくちゃになった白い封筒を、灰色の瞳でじっと睨みつける。
封筒は、彼が衝動的に握りつぶしたせいで、いびつな形になっていた。だが朔夜は手紙を破り捨てることも、ゴミ箱の中へ突っ込むこともできずにいた。なぜなら魂の番であるオメガが書いた最後の手紙だったからだ。
大きなため息をついてから朔夜は封筒を手に取った。
お気に入りの洋服にアイロンをかけるような手つきで、封筒のシワを伸ばす。
封筒の表には達筆な字で朔夜の名前が書かれていた。甘いバニラに似たオメガのフェロモン──ヘリオトロープの花の匂いが、ほのかに香る。その思い出深い香りは、朔夜の意識を過去へといざなった。
まだ世の中の常識や体裁を考えずに済み、何のしがらみもなかった頃、ミミズがのたくったような字で誕生日カードを書いて渡したり、年賀状を送り合ったこと。学校へ通い始めてからは授業中に先生の目を盗み、こっそりメモのやりとりをして、夢中になりすぎて先生に怒られたこと。
何十年も前のできごとを、まるで昨日あったできごとのように朔夜は思い出していた。
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