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ひとを好きになるということ
家に戻ったころには、空は明るくなり始めていた。
土や汗や血で汚れた服を脱いで、順番にシャワーを浴びたりしている間に、すっかり夜は明けて、いつもの清々しい朝の空気が部屋の中を満たしてる。
「ヤバっ! 礼拝の時間…っ」
慌てたようにそう言ってレイはバスルームから寝室に戻り、いつもの黒衣を出そうとクローゼットに手をかける。その後を追っていたユーゴは、黒衣を手にしていたレイの手を掴むとそれを無言で戻して、ベッドの中に彼を押し込めた。
「ちょっと、ゆーちゃん! なんで邪魔…」
「レイくんは寝てて」
「……は?」
「朝の礼拝は僕がやります」
「え、でも…」
「でも、じゃないっ!!!」
家に戻って明るい光の下で見てみると、レイの腕には傷があった。弾を避け損ねて掠っただけとレイは言っていたけど、それを見てユーゴは青ざめた。
人間は魔物と違ってすぐに死ぬ。傷だってすぐには治らない。しかも怪我は放っておけば、そこから腐って死んでしまう。
そんな人間は今まで沢山見てきたし食らってもきた。だから。
「ホント大丈夫やって。かすり傷やもん。すぐ治…」
「駄目っ!!! とにかく僕が戻るまでそこから動かないで!! 絶対っ! わかった?!」
「…はぁい」
しゅんとしてしまったレイを視界の端に捉えながら部屋を出る。それから少し気を取り直して、ユーゴはすぐ隣にある教会に向かった。
朝の礼拝は、週末みたいに人が沢山来るわけでもないし時間も短い。
祈りを捧げて経典の一節を読み、神を賛美する歌を歌う。三ヶ月もレイの傍でそれを見ていたから手順はわかってるし、問題なく出来る。
そう思っていたのだけれど。
「あの、今日は、本当にすみませんでした」
「あらあら。謝ることなんて何もありませんよ。ユーゴ様のお声もとても素敵で心地よかったです」
礼拝が終わって帰る人々を送り出しながら、頭を下げるユーゴに、皆が優しく声をかけてくれる。
はじめての代打は、正直、散々だった。
経典の朗読は噛み噛みだし、賛美の歌は所々音程が怪しくしかも歌詞まで間違えた。本当に、駄目駄目だった。
それに、いつもはこのお見送りのときレイは信者ひとりひとりの手の甲にキスをする。その日一日の健康と幸せを願って。という意味があるらしいのだけれど、それもやっぱりユーゴにはハードルが高すぎた。
レイ以外の人間に意図して触れるのが、怖い。
町の人はみんないい人ばかりでユーゴに危害を加えたりしないのはわかっているのだけれど。
協会から家までの短い距離を歩きながら反省して、レイの部屋の前まで来ると、パン! と両の頬を手で叩いてふうとひとつ息をつく。ドアを軽くノックして中に入ると、ユーゴに言われた通り大人しくベッドに座っていたレイが、おかえりゆーちゃん。お疲れ様。とユーゴを出迎えた。
部屋の中の温度がなんだか低い。不思議に思ってぐるり部屋の中を見回すと、ベッドの脇の窓が全開に開け放たれている。驚いてあわてて窓を閉めると、ふふっとレイが微笑んだ。
「ゆーちゃんの声、聞いとったよ」
「……聞こえた?」
「うん。ちゃんと聞こえたんは歌だけやけど」
「いっぱい、間違った」
「そう? いい声やなぁって、おれ感動しとったけど」
「……お医者さんに、耳、診てもらった方がいいんじゃない?」
だって『レイの代わり』なのに、何ひとつ上手く出来なかった。褒められるようなところなんて、まったくなかった。
「ねぇ。ゆーちゃんもさ、祭司にならん?」
「…………は?」
「は? やなくて。おれ、本部に推薦状書くからさ。ね?」
「え。だって。無理でしょ? 普通に考えて」
「大丈夫やって。おれが推薦するんやもん」
その自信は一体何処からくるんだろう。ユーゴは思わずため息をついた。
本人が言うようにレイは本当に位の高い祭司なのかもしれないけれど、でも、偉いからって何でもできるわけじゃない。ユーゴは魔物だ。しかも悪魔。それを祭司にするだなんて、あり得ない。馬鹿げている。
「だいたい、なんで急にそんなことを……」
「急やないよ。ずっと考えとった。……まあ、今までは、おれもあんまり、ちゃんとって程は考えとらんかったかも、やけど」
言ってレイがスッと手を伸ばしてユーゴの黒衣の腰の辺りをぎゅっと掴んだ。意味を測りかねて視線をその手から上にずらしていくと、こちらをじっと見ていたレイとパチリ目が合う。黒衣を掴んだ手は離さないまま、絡んでいた視線だけを外してレイがまた口を開いた。
「でもさ、ゆうべ……っていうか、さっき、思い出したんよね」
「何を?」
「先生が言っとったこと」
先生という単語に、昨夜の初老の男の顔が浮かんだ。
同時に、倒れている彼を見つめていたレイの姿が思い出されて、ユーゴはきゅっと口を引き結ぶ。
「先生がさ。あ。先生ってあの人ね。ゆうべの片眼鏡の」
「うん」
「あの人ね、お医者さんやったんよ。だから先生。んで、その先生ね、結婚してすぐに奥さん病気で亡くしちゃったんやって。出会ったときにはもう病気で、助からんし長くないのもわかっとったけど結婚したって。先生『しょうがないよね』って言っとった。『最初に目が合ったときに、ああ、この人だって思っちゃったから、どうしても彼女じゃないと駄目だった』って。『だからレイも、この人だって人に会ったら迷わず捕まえなさい。一分一秒でも長く一緒にいられた方が、幸せだから』って。───そう言われたの、思い出した」
昨夜先生に会うまで、すっかり忘れとったけどね。と、少し悲しそうにレイが笑む。
「あのね、おれ、最初に町でゆーちゃん見かけたとき、ちょっと嫌だなぁって思ったんよね」
「え……」
急に自分の話になったことにユーゴはドキリとした。それから『嫌』という単語に反応して、胸がきゅっと縮むような感覚が身体を通り抜ける。
「だってさ、見るからに怪しげだったんやもん。ボロボロやったし、なんかヤバそうやなぁって。声かけるか、めっちゃ迷った」
言われて、もし自分がその立場だったら素通りしただろうな。とユーゴは思う。自分で言うのもなんだけど、客観的に見てもそのくらいボロボロだったし、かなり汚かった。
「でもさ、声かけて目が合って、その時思ったんよね。あ。家に連れて帰ろうって。本当は声かけるまでは病院か警察に連れて行こうって思ってたから、自分でもびっくりした。で、連れて帰ってさ、どうやったらずっとここにおってくれるかなぁって、いっぱい考えて。……おれ、先生の言ったこと忘れとったけど、実はどっかで覚えとったんかなあって、さっきまで、ずっとそのこと考えてた」
蛇行する道みたいにレイの話は先が見えにくくて、何が言いたいのか良くわからない。けれど段々、その行く先が見えてきた気がして、ユーゴは自分の体温が上がっていくのを感じた。
だって、それって。
「あのね、おれ、ゆーちゃんのことが好きみたい。ずっとおれと一緒にいて欲しいなあって思うんよ。だからゆーちゃんも祭司になったらずっと一緒におっても変やないし、いいんやないかな? って、そう考えたんやけど、駄目?」
レイの言っていることは滅茶苦茶だ。
話はわかりにくいし、最初は嫌だと思ったとかひどいことを言うし、その上悪魔のユーゴに祭司になれなんて無茶を言う。本当にもう、どこをどう取っても滅茶苦茶だ。なのに。
胸が痛い。痛くて痛くて仕方ないのに、その痛みを甘くて嬉しいと感じる。何処か自分がおかしくなってしまったんじゃないかと不安になる程、だ。
「……ユーゴはおれのこと、嫌い?」
問われてユーゴは首を横に振った。
嫌いじゃない。何処も、嫌いじゃない。胸の痛みも何もかも、これが好きという感情なら、きっとそうなんだろう。でも、上手くそれを言葉にできなくて。
「よかった。じゃあ、おれのこと好きになって? ね?」
言葉を返せない代わりに、ユーゴの黒衣を掴んだままのレイの手を上からぎゅっと握った。するとその手が逆に捕らえられてレイの方にくっと引かれる。
頭だけじゃなくて、足元もふわふわと覚束ない。倒れ込むようにレイの上に落ちると、その腕がぎゅっとユーゴを抱きしめた。
言葉にならない想いが、かわりに雫となってポロポロと目から溢れる。そしてそれを伝えるかのように、レイの肩口をしっとりと濡らしていた。
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