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チョコレート
悪魔というのは基本的にとても美しい生き物だ。
絹糸のような髪、澄んだ瞳、内側から真珠の輝きを放つ肌、聞き惚れる美声。
ユーゴがそれらをきちんと取り戻したのは、レイに拾われてから三週間ほど経った頃だ。
レイは約束通り、毎日ユーゴに食事をさせてくれた。最初にしてくれたように毎晩、眠る前にキスをして、可愛い、綺麗と褒めてくれる。常に空腹で栄養の足りなかったユーゴは痩せぎすで、髪も肌もくすんでいて、そんな風に言ってくれる人など何処にもいなかった。
だから、褒められるとなんだかムズムズしていてもたってもいられない気持ちになって落ち着かない。
それに、そんなユーゴを見て目を細めるレイこそ恐ろしく綺麗だった。
レイは変わった男だった。
何処にでもあるような小さな町の小さな教会とはいえ、彼はそこの祭司だ。立場を考えれば、ユーゴなんて追い出した方がいいに決まってる。なのにレイはそこにユーゴを閉じ込めるでもなく、好きなようにさせていた。今だって、特にすることもないから町の中をふらふらと散歩している最中だ。
拾われてから三ヶ月と半分。雪解けもすすんで、空気もかなり暖かくなってきた。身体の調子も良くて、今まではほとんど生命維持に費やしていた魔力も、多少は使えるようになった。
出ていこうと思えば、いつでも出ていける。けど。
「ユーゴさまーっ!」
自分を呼ぶ声とパタパタと走りよってくる足音に気付いてユーゴは足を止めた。くるりと振り向くと、両手に袋を抱えた少女が走ってくるのが見える。
たしか、すぐそこの青果店の娘だ。
この三ヶ月半、レイがあちこちにユーゴを連れ回し、人に訊かれるたびにユーゴを『祭司見習い』などと紹介したせいで、すっかりそれが定着してしまっていた。背格好が似ているからと、レイの手持ちの祭司服を着せられているし、丁度いい言い訳ではあったけれど。
「これから教会にお戻りですか?」
はあはあと息を切らせながらそう訊ねる少女に、はい。と答えると、よかった。と返事が返ってくる。
「これ、お母さんが、ユーゴさまとレイさまにって」
はい。と渡された袋は結構な重さがあった。中を覗くと、林檎と葡萄が入っている。
「いいんですか? こんなに」
「はい! レイさま、りんごがお好きでしょう? ユーゴさまもお好きですか?」
「ええ。ありがとうございます」
人間の食べ物は味がしないものが多いけど、果物は別だ。甘かったり酸っぱかったりちょっと苦かったりして美味しい。唯一人間と同じ味覚が共有できる食べものだ。
ありがとうともう一度お礼を言うと、少女が嬉しそうに笑う。つられて笑んで、それから、あ。と気付いてユーゴはポケットに手を入れた。
少女に会う少し前に会った老婆がくれた包みが指先に当たった。
「そうだ。お礼にこれを。いただきものですが。チョコレートだそうですよ」
「え……? いいんですか?」
「はい。もうひとつあるので」
そう言って二つの包みを見せると、少女はおずおずと片方を受け取ってはにかんだ。
「ありがとうございます」
「いえ。気を付けてお帰りになってください」
ユーゴがそう答えると、少女は手をふりながら来た道を引き返していく。
思わず、ふうとため息が漏れた。
この町でのレイの人気ぶりは、この三ヶ月半でよくわかった。
ふらふら歩いていると、今みたいに呼び止められて『レイさまに』と、食べ物やら何やらをやたらと貰う。教会につく頃には両手がいっぱいになっていることも珍しくなかった。
『今の生活があるのはレイさまのおかげです』
人々は口を揃えたようにそう言う。
実はこの町では金が採掘されるのだという。埋蔵量は多くないが、それが町の財政のかなりの部分を支えているという話だった。
『ええ。金はこの町の生命線なんです。見ての通り、他には何もない町ですから。少しずつ掘って町の整備とか福祉とか医療とか、そういうものに使うんです。おかげで暮らし向きは悪くありません。だだ、ね。かわりに盗掘やら強盗やら、そういう連中に狙われることも多くって、困っていました。もちろん自警団はあります。でもね、旦那や息子が怪我をすると、その後が大変で』
自警団は町の男たちで構成されている。暴漢に会って戦えば、負傷する者ももちろん出てくる。働き手を失えば何処の家も困る。金が採れるという恩恵を受ける代わりに、それが町の大問題だったらしい。
『それがね、レイさまがいらしてからガラリと変わりました。あの方ね、あんな華奢な形をしてとてもお強いんです。大男のひとりや二人なら、簡単に伸してしまうそうですよ。町の境に罠のようなものを仕掛けるとか、そういうこともしてくださってるって話で、それで町の中に不届き者が入ってくることは、めっきり少なくなりました。私たちが安心して暮らせるのは、本当にレイさまのおかげなんです』
普段はふわふわしたお方で、そんな風には見えませんけどね。と、以前におしゃべりな酒屋の女主人が笑って話していたのを思い出す。
ユーゴが知っているレイも、ふわふわとしている姿が主だ。
寝起きが悪くて朝はぼんやりしているし、朝の礼拝に遅れそうになって朝食を食べられないこともしょっちゅうだ。掃除も洗濯も料理も苦手。方向音痴で何年も住んでいるはずの町で迷子になったのも記憶に新しい。
本当に今までどうやって生活していたのか不思議なほど。
なのに礼拝の最中のレイは、それと同一人物なのかと疑うほど崇高だ。柔らかな声で教典を読み、艶やかな声で賛美の歌を歌い、人々を心酔させる。
この町の人々は信仰心が強いのか、他の町の人間に比べて教会に通う回数が多い。けれどそれは『神』というより『レイ』を慕ってのことのように、ユーゴの目には見えた。
この町に、あまり長居をしない方がいい。
いや。町に、と言うより、レイの近くに。
もしもユーゴが悪魔だとわかれば、町の人間たちはたいそう怒るだろう。自分たちの敬愛するレイのそばにそんなものがいるだなんて、許さないに違いない。それにユーゴが悪魔とわかっていて匿っているレイも何を言われるか。
そうは思うのに、ユーゴは結局ここに帰ってきてしまうのだけれど。
ふうとひとつため息をついて、玄関のドアを開ける。
寝室やバスルームの扉がある廊下を抜けてリビングに入ると、お帰り。ゆーちゃん。とレイがこちらを向いてにこやかに出迎えた。
初めて会った日から、レイは何故かユーゴを『ゆーちゃん』と呼んでいる。最初は変な呼び名で呼ぶなと抗議したけれど、まったくやめる気配がないから諦めた。別に好きなように呼べばいい。ただ、今までそんな風に親しそうな呼び名で誰かに呼ばれたことがなかったから、呼ばれるたびになんだかちょっとくすぐったかった。
「ただいま」
と返すと、レイが嬉しそうに側に寄ってくる。
この『おかえり』も『ただいま』も、ユーゴには慣れない言葉で、口にするのはいまだに少し気恥ずかしかった。
「なあに? それ」
ユーゴの抱えた紙袋に目を向けてレイが問う。
「ああ。さっき貰ったんだよ。レイさまにって」
説明をしながら紙袋をテーブルの上に置くと、中を覗き込んだレイが「りんごだ!」と嬉しそうに飛び跳ねた。
「食べたい! 食べたい! ぶどうも! 両方食べる!」
「はいはい。洗うから、ちょっと待って」
いつものことながら子供みたいだと苦笑して、それからもうひとつ気付いてユーゴはポケットに手を入れた。
「そうだ。これも。チョコレートだって」
そう言って手のひらに乗るサイズの包みをレイに渡すと、レイはさっと包みを開いた。中には丸い飴玉みたいな茶色い塊がいくつも入っている。人間、特に女性や子供はこれが好きらしくて喜んで食べているけど、ユーゴから見たらピカピカの泥団子みたいで気味が悪い。どう見ても美味しそうには見えないけれど。
「ゆーちゃんも食べる?」
それをひとつ摘まんで口の中に入れたレイをじっと見つめていたら、そう訊かれた。あわてて首を横に振るとレイが不思議そうに首を傾げる。
「なんか気持ち悪いから、いい。どうせ、味もしないし」
「食べたことあるん?」
「ない、けど」
「じゃあ、試してみよ?」
にこにこ楽し気にそう言って、レイは包みをテーブルの上に置いた。そこから一粒チョコレートを摘まむと、ユーゴの鼻先までそれを持ってくる。思わず眉間に皺が寄った。
レイはこういう遊びが好きだ。ユーゴが食べたり飲んだりしたことがないと言うと、嬉々として食べさせたがる。なんの味もしないものが多いけれど、たまに美味しかったり、食感が楽しいものに当たったりすることもある。これまでも人間と食事することはそれなりにあったけど、変に見えないように振る舞うことばかりに気を取られていて、味がどうこうなんて考えたこともなかったユーゴには、ちょっとした発見だった。でも、それほど気の進む遊びでもない。
はい! と催促されて、ゆるゆると口を開く。
チョコレートは、あんな見た目だけれどとても甘いと聞く。もしかしたら…と、少し期待して口をさらに開くと、ころりと口の中に固い塊が転がった。途端、パッと後頭部と腰にレイの手がまわる。
は?
驚いているとそのまま、レイの舌がユーゴの口の中に侵入してきた。チョコレートを追うようにその舌が、自由に口の中を散策する。舌の上でとろりと溶けだしたチョコレートとレイの味が混ざって、ひどく甘い匂いと味が口の中いっぱいにひろがる。コクっとそれを飲み下すと、じんと身体の奥が震えた。
甘くて、美味しくて、……気持ちが良くて。
「美味しい?」
唇が触れる距離で問われて、ユーゴはハッとした。
夢中になっていつのまにか自分の方からレイの頭を抱き、ちゅうちゅうとその唇を貪っていたことに気づいて、ユーゴはあわてて手を離す。身体も離したかったけれどレイの腕が腰にまわったままだ。恥ずかしくなって下を向くと、ふふっとレイが笑った気配がする。
「初めてのチョコレート、どうやったん?」
「わ、かんない」
だって、口の中はもうレイの味しかしない。
「もう一個食べてみる?」
そう訊いてきたレイの提案は魅力的ではあったけれど。
「林檎と葡萄、食べるんでしょ。洗ってくるよ」
心臓が異様に早く動いていて、息が苦しい。
レイの胸を押してその腕の中から抜け出すと、テーブルの上の紙袋を持ってユーゴは逃げるようにキッチンに入った。
レイは他人との距離が近い。町の人たちともよくバグしているし、頬にキスしているのも見かける。だから自分が特別だというわけではないのだろう。ユーゴとのキスが唇なのは、食事を兼ねているから。それ以上でも以下でもない。
けれどユーゴからしてみたら大変なことだ。他者とそんなことをしたことはなかったし、ユーゴの常識から言えば、唇へのキスは人間の恋人同士がするものだ。それとも自分の知識が間違ってるんだろうか。
そんなことをぼんやりと考えて、それからふるふると頭を横に振る。だって考えても仕方のないことだ。どうせ、ここに長くはいない。
蛇口を捻ると勢いよく水が出る。顔に跳ねた水を手の甲で拭って、ユーゴは紙袋の中から林檎を取り出した。
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