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聖女の出立
「庶民からって、どうやって選ぶの? シャイデの城に勤めている使用人たちもいるでしょうに」
「それがさあ。実際に行ってみたって家の親御さんから聞いた話だと、城の中の、何もないつまんない部屋に通されただけだったって」
「えっ?」
会話に母も加わって兄がした返事にオルカは驚き、思わず声を上げていた。
すぐに「なんでもないよ、続けて」と慌てつつ、自分にとっては過去のことをオルカは思い返した。
(あの部屋のことだよね。何もないどころじゃなかったはずだけど)
領主の城に意気揚々と向かった過去のオルカも、シャイデ城内にある一室へと連れて行かれた。
そこで待ち受けていたのは、不思議な部屋だった。
オルカが部屋の中に一歩足を踏み入れた途端に花開き、これが魔法というものなのかと驚いた記憶が、まだしっかりと残っている。
そうして気づいたら聖女の従者に選ばれていて、オルカはその後一度も家に帰ることは許されなかった。しかし、あの不思議で美しい部屋に通されたのは、オルカの時だけだった、ということなのだろうか。
それとも、オルカの知る過去と、シュニーが与えてくれた『今』は何かが違うのだろうか?
「……オルカ。やっぱり、具合が悪いのね? 顔が真っ青どころか真っ白よ。いつも家の手伝いから仕事の手伝いから、毎日頑張ってくれているものね。今日はゆっくり休みなさいな」
水仕事を終えてひんやりとした母の手が額に触れてきて、オルカは一気に『今』に戻った。
大丈夫。もう、大丈夫なんだ。
そう自分自身に言い聞かせているうちに、「にゃあ」と子猫が鳴く声がした。
「あら! オルカったら、まーた可愛いお客様をお連れしていたのね。前は怪我をした小鳥だったけれど、猫のお客様は初めてね。あなたはミルクが良いかしら? なにが良いか、お隣さんからちょっと聞いてこなくちゃね」
「うわ、ちっちゃいなあ! お前、お母さんは? 置いていかれちゃったかな? そうなら、寂しかったなあ……」
兄も興味津々といった表情でオルカのポケットから顔を出したシュニーに声をかけている。
一方、シュニーもオルカの家族たちに構ってもらえるのはまんざらでもないらしい。
シュニーがいつもの口調で話し始めたら、さすがにオルカの家族たちも驚くのではと少し心配ではあったものの、シュニーは彼らの前ではただの子猫のふりをするつもりらしい。気づけば父のところまで遠征し、可愛がられているのをハラハラしながら見守っていたが「とにかくオルカはもう少し休みなさい」と二階に追いやられてしまった。
(過去の僕は、さっきの会話で聖女様の従者の話が出た時、兄さんたちに反対されたのに絶対に城に行くんだって勝手に決意したんだ)
シュニーが顔を出さなかったらきっと、あの時と同じくオルカも十五歳で、資格は満たしていることを兄が言い出しただろう。
(でも、今度は行かない)
オルカじゃなくても、誰かしらは選ばれるのだろう。
そうすれば、すべてにとって良い方向に行くはずだ。
「ノルヴィウス様の苦しそうな幻も、きっと消える」
力尽きてシュニーと出会う直前に見た、あの幻が今でも鮮明によみがえる。
あの日。
従者候補に名乗り出なければ、自分はあんな終わり方をしなかったに違いない。
そう信じたオルカは、領主の城へ行こうと周囲から誘われても頑なに断り続けた。
闇の神獣と名乗っていたことも忘れかけてしまうくらい、シュニーがオルカの家族としてすっかりなじんだ頃。
『神獣の守護者』である聖女・フローラが王都に向かって旅立った。
オルカが兄のタスと一緒に市場へ出掛けたその日がちょうど出立だったらしく、仰々しい行列に囲まれた一際華やかな馬車から、聖女がにこやかに笑顔を振りまいているところを偶然見かけた。
思わず兄の背中に逃げ隠れてしまったものの、数えきれないくらいの蔑みと嘲笑と暴力をオルカにぶつけてきたフローラの側で怯えていた自分は、あの行列の中にはいない。
(これからはちゃんと考えよう。自分の足で、生きよう)
今度こそ流されず、自分の未来を己自身で選択できるように。
誰かを言い訳にしたりしないように。
大通りを舞う花びらと共に遠ざかっていく行列を見送りながら、オルカはそう決意した。
そんなオルカのポケットの中からは、闇の神獣の可愛らしいあくびが聞こえてくるのだった。
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