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神獣の顕現者
「よーっし、店じまいだ! オルカ、夕飯食べに行こう」
「まだ片付け終わってないでしょ、タス兄さん」
オルカの返事など聞こえていないフリをして、タスは彼お気に入りの上着を羽織り、帰り支度を始めている。
夕日と同じ色にすっかり染まった空を見上げ、今日一日無事に終わったことを感謝する祈りを捧げてから、オルカは慣れた手つきでそれぞれの種類に合わせた保管用の袋に薬草をしまい込んでいく。
彼らは今、実家のあるシャイデ領を離れて、王都にほど近いエーレン領の街で商いをしている。
オルカたちの家――ハイル家はずっと続いている薬師の家系で、父や兄はこうして他の領地にも行商に赴く。
オルカも兄を手伝っていろんな領地を巡るようになってから数年経ち、成人として扱われる年齢になった。
貴族や裕福な者たちは神殿に寄付すれば高度な治療を受けられるものの、そうでない者たちには薬が頼りとなる。
ハイル家はシャイデ領にはない薬草の採取をしながら、神殿の恩恵を受けにくい場所を中心に薬を提供している。
今いるエーレン領は王都に近いということもあって、庶民への福祉も行き届いている。薬の需要はあまりなさそうだが、タスはオルカの勉強のためにとわざわざ寄ってくれた。エーレンの薬屋を覗いたり、すべての民に開放されている図書館に行ったりと、兄を手伝う合間にもオルカには学ぶことがたくさんあり、充実している。
(……こんな風に生きられる未来があるなんて、思わなかったなあ)
しみじみと、そう思う。
ここや王都周辺の土地は冬でも温暖だが、北部ではもうとっくに雪が舞い、積もり始めている頃だろう。
あっという間に、死に戻る前の自分が死んだ時の年齢を越えていた。
背は伸びたけれど、髪は邪魔になるので兄と同様に短くしている。筋肉の付きは体質なのかあまり良くはないが、あの時よりもずっと色んなことができるようになり、世間知らずではなくなったつもりだ。
これからも無事に生きていけるかは分からないが、今まで十分すぎるくらい満ち足りた時間を過ごせたと思う。
道程が辛かったり怖い目に遭ったりしたことも一度や二度ではなくあったけれど、死に戻ってきた自分は明らかに以前の自分とは違っていて、それらを苦痛とは思わなくなっていた。
「ほら、先に行っちまうぞ!」
「行ってていいよ、兄さん。僕もすぐに行くから」
分かった、と嬉しそうに笑った兄が、足取り軽く雑踏へと消えていく。
露天商が軒を連ねる広場は大通りにも近く、安くて美味しい大衆向けの食堂も多い。食べることが大好きな兄がエーレンに滞在しているのは、これもあるんじゃないかな、と考えてオルカは一人笑いかけ、薬草やら精製を終えた薬やらが入った鞄を背負い、広場を出る。
「――にしても、驚いたよなあ。あーんな華々しくやってきて、聖女サマが偽者だったなんてよ。そんなこともあるんだなあ」
「まあ偽者で良かったんじゃないか? 神殿の権威をかさに着て、やりたい放題だったって話じゃないか。とっとと追放されろってんだ! それに、親のシャイデ侯はだんまりだってな。社交界で娘の自慢をしまくっていたらしいが」
聖女の話題が聞こえてきて、オルカはギクリとなって足を止めた。
通りすがりの彼らはエーレンの商人たちで、とめどなく噂話をしている。
「神獣も、偽者に怒っていなくなっちまったっておかしくないよなあ。ここいらはまだそんな影響はないが、北部とかは例年にない大雪が降っているのも、神獣が怒っているからだって、うちのばあ様がうるさくてさ」
「それはさすがにおとぎ話だろう? だが王太子殿下が体調を崩しているっていうのは関係あるのかな。ほら、王太子殿下が『神獣の顕現者』とかってやつだから」
「神獣を身の内に宿しているって、なあ。対になる『神獣の守護者』と結ばれて国がますます栄えましたとさ、って話しか聞いたことがないのに、それが偽者だったんじゃあ王太子殿下はどうなるんだ?」
分からんなあ、ともう一人がお手上げといわんばかりに首を小さく振り、会話は別な話題へと移っていった。
(フローラ様が……聖女の偽者って、いったい? それに、ノルヴィウス様が体調を崩されている?)
もう消えかけていたはずなのに、あの雪原でオルカの名前を必死に呼んでくれた、彼の人の幻が急に思い出されて、胸が苦しくなる。
どんな声だったか、ハッキリとはもう思い出せない。
顔も、真っ正面から見ることができたのはあの雪原で幻に触れた時だけだったので、曖昧ではあるけれど。
聖女として王宮に旅立ったフローラが偽者という噂が立つのも、死に戻る前であればありえないことだったはずだ。
(ノルヴィウス様と神獣には何かつながりがあるのかな。シュニーは闇の神獣って自分のことを呼んでたけど、とってもいい子だし……)
すっかり定位置となったポケットの中から子猫の姿をしたシュニーを抱え上げると、ふわふわな毛並みに包まれた闇の神獣はあくびを一つした。
しかし、目を覚ますことなくそのまま心地よさそうに眠りこけている。それについ頬が緩んで、笑ってしまってからオルカは気を引き締めなおした。
オルカはもう一つ思い出した。
シュニーがオルカの魂を呼び戻してくれた時、オルカは荒廃した【神獣の庭】で目を覚ましたではないか。オルカがずっと一人で通い続けたあの庭。
あの庭と神獣と王太子殿下と――すべてが繋がっているような妙な予感に、オルカはいてもたってもいられなくなった。
近くの路地裏に入り込む。
慣れていない土地でそういうところに入ってはいけないと父や兄から散々言われてはいるが、堂々と大通りでシュニーと会話するわけにもいかない。寒くならないように、自分の首元に巻いていたマフラーでシュニーを包み、抱えなおす。
「シュニー」
と、ようやくシュニーが目を覚ました。
「あ、起きた! シュニー、聞きたいことがあるんだけど大丈夫?」
『どうしたんだ~? ご飯の時間か~?』
のんきな口調で、まだ眠そうに目をこすりつつ返事をしてきたシュニーに質問しようとしたオルカは、背後に人の気配がすることに気づいて、咄嗟にシュニーをまたポケットの中に隠した。
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