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青年1
夢を見ていた。
僕が幼い頃自殺した母の夢だった。
生前の母の記憶は少ない。大好きだった筈なのに、今はもうその顔すらぼんやりとしか覚えていない。
夢の中の母はそんな僕の記憶に忠実であり、ご丁寧にボヤけた顔のまま現れては、毎晩僕の名を呼び続けた。
「お母さんもうダメみたい。ごめんね……」
これは夢だ。解っている。解っている筈なのに、母の部屋の前に立ち尽くしたまま、僕は動くことができなかった。
正確に言うと、逃げようという努力をしてはいた。ところが、どんなに力を込めても、鉛でできた水の中を泳いでいるように身体がうまく動かない。自らの身体を何者かに遠隔作用されているような、そんな恐怖を感じる。或いは自らの脳と身体をつなぐ神経が突如として切り離されてしまったかのようにも思えた。
全身に力を込め、必死に足掻く。動かない手足と相反して、自分の心臓の音だけが大きく、早くなっていった。
そうしている間に僕は、これが夢であるという自覚すら奪われ、夢に飲み込まれていた。
――たすけて。お母さんをたすけて。
知っている。僕には助けられないことを。
――たすけて。たすけて。誰かたすけて。
知っている。その声はやがて途切れ、跡形もなく消えてしまうことを。
必死に助けを請う母は、不思議な事に開いている扉から出ることができない。
実際母は、この部屋の中たった独りきりで泣き叫び続け、命を終えたのだから当然といえば当然だ。ただそれが毎晩夢で行われると、死んだ今もまだこの部屋で母が泣き続けているように思えて不快だった。
夢の母はまるで結界の中に閉じ込められた悪魔のように耳障りなさけび声をあげながら、唯ひたすらに泣き喚くだけ。
夢に飲まれた僕が咄嗟に手を伸ばすと、同時に、輪郭のない母の顔から何かがこぼれ落ちた。
きっと涙を流し続けたせいで、体内に存在する水分を出し切ってしまったのだと、僕は一瞬にしてそう結論付けた。
ドロリとおちた真黒い塊。それは母の眼球だった。
身体中の水分を失い、それでも尚泣き続けていたいから、自らの瞳までもを涙に変えたのだろう。そしてこの後は、髪の毛や舌、或いは腹わたの一つ一つを涙のかわりにして、母はその悲しみを訴えつづけるのだろう。
根拠はないが、夢の中の僕はそう確信していた。
目を失くした母の顔なんて、見たくなかった。大好きだった母の面影はもうどこにもなく、あるのは恐怖だけ。しかし、相変わらず自由に体を動かすことのできない僕は、そこから目を逸らすことさえゆるされなかった。
自らの視力を恨んだ。夢の中くらい盲目で構わない。否、盲目であってくれたらどれだけいいだろうか。
この後何が起きるのか、何を見なくてはならないのか、僕は知っているのだ。
目を落とした母の顔。ぼやけてはっきりとみることはできないのに、本来瞳のあるべき場所に、ぽっかりと穴があいていた。
それは余りにも黒く、まるでブラックホールのような計り知れない恐ろしさと、宇宙空間のような永遠を感じさせる。
深い闇に睨まれた僕は、唯、唯、恐怖に立ち尽くした。
「うわああああ」
自らのさけび声に目をさますと、まるでフルマラソンでも走ったかのような汗が全身から噴き出していた。
「夢か……」
見慣れた生活感のないアパートが現実を知らせ、辛うじて現状を理解する。
僕はその安堵感から大きなため息をひとつ漏らすと、額を這う汗を手でそっと拭った。
そうだった。思えば全て、夢で見たとおりだった。
幼い記憶の中、母はいつだって泣いていた。
それはきっと鬱状態にあったのだと、大人になった今ならわかる。
しかし当時僕は幼すぎて、母の涙が怖かった。
僕は此処にいるというのに母は泣く事に夢中で、いつだって僕の事をみてくれなくて――だからこそ僕は、いつしか涙が母を支配していると考えるようになったのだ。
涙に囚われているせいで僕がみえないだけ。涙さえなければ、僕をみてくれる筈だ。
そう考える事で、一向に母から貰えない愛と、それを欲する自らの心から目を背け、納得させていたのだ。
しかし母は、ある日突然涙に負けた。
ドアノブにぶら下がる母が握り締めていた遺書には、震える字でこう書かれていた。
「ごめんなさい。愛してる」
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