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少女2
誰にも気づかれないままとうとう声まで失ってしまったら、私はこの先どうなってしまうのだろう。
焦りと恐怖に苛立ち、握り締めていた拳を思わず床に叩きつける。
「冷たい……」
何故今迄気づかなかったのだろう。拳に触れたその感触はひんやりとしていて、指で擦るとキメの細かい表面に沿ってツルツルと滑った。
私は咄嗟にキッチンの作業台を思い出す。
この感触は金属だ。間違いない。
だが、絶望は私をとらえて離さない。その気づきに希望など欠片もないことをすぐに理解させられた。
金属の床なんて、一体どこにあるというのだろう。
少なくとも自分の行動範囲の中では覚えがない。いつもと変わらない一日だった。
そう、平和な日だった。
今朝は毎日そうするように身支度をして、時間通り母の作った朝食を食べた。
母は心配性で、何でもかんでも火を通しすぎる癖がある。朝ごはんはモソモソした食感のゆで卵と、焦げたチーズトーストだった。まだらに焦げた形やほろ苦さまでちゃんと記憶している。
そこからいつものように学校に行って、いつものように授業をうけた。昼食は仲良しの裕子と中庭でパンを食べ、帰りのホームルームでは、担任がなかなかあらわれずイライラした。何の変哲も無い一日だった。
ちゃんと覚えている。
それなら、この目が最後に見た光景を思い出そう。きっとそれがこの場所の大きなヒントになる筈だ。
私は全神経を集中させ、記憶を遡った。
下校途中、学校近くの本屋で漫画雑誌を立ち読みした。十分くらいは読んでいたと思う。
本屋を出たところでクラスの市川さんにばったり会って、たいして仲良くもないくせに、コンビニまで一緒に帰った。
市川さんはスクールカーストの頂点に立つ人物で、可愛くてキラキラしていて、それなのにちっとも気取らなくて、私みたいな奴にも分け隔てなく接してくれる素敵な人だ。
ふわふわと揺れる市川さんの巻き髪が眩しくて、隣にいるだけでなんだか惨めな気持ちになった。
沈み始めた太陽と、生ぬるい風。寂れた商店街の手動シャッター。規則的に並ぶ赤いタイルが魔法陣のようで、私はその商店街が嫌いじゃなかった。
全て鮮明に思い出すことができる。目は、見えていたのだ。
その後角のコンビニで市川さんと別れてもなんとなく家に帰りたくなくて、いつもよりのんびり歩いた。
そして商店街も出口に近づいた頃、私は気づいたのだ。
そうだ、全て思い出した。
朝降っていた雨のせいで荷物になっていた傘を、先に立ち寄った本屋に置き忘れてしまったのだ。商店街の出口付近でそのことに気づき、私は憂鬱な気分になった。
取りに戻るには遠いし、でも手ぶらで帰れば神経質な母を怒らせる。だから私は明日取りに行くことを条件に、このまま帰宅することを許してもらおうと、小道に入り鞄からスマートフォンを取り出した。
間違いない。記憶はここで途切れている。
つまり、すぐそばにあるということだ。
私は慌てて両手を広げ、手探りで地面を這った。
すぐに覚えのある触り心地が小指に触れる。記憶通りの形と大きさに、ぶら下がるリボンのキーホルダー。去年裕子と原宿に行った時にお揃いで買ったお気に入り。
間違いない。私の鞄だ。
私は狂ったように中をひっくり返し、指先の神経を集中させた。
音声認識機能も付いてるし、何でも指先がおぼえている。スマートフォンさえあれば見えなくてもきっと何とかなるだろう。
しかし、私の微かな希望はあっという間に砕け散った。
理由はわからないが、記憶が途切れた瞬間手に持っていた筈のスマートフォンは、その後鞄に戻ることはなかったのだろう。
再び拳を握りしめると、私は孤独と悔しさでパンクしてしまいそうな頭を、金属の床に何度も何度も叩きつけた。
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