不安だらけの摩天楼

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シズクがばたばた去っていった後、部屋は急に静かになった。 「とりあえず、座ってくださ…あー、座るとこないですね。」 伊澄が何やら高そうな洋書を、いとも乱雑にガッサーーとかき分け床を見出そうとする。 「あっ、そんな雑にやったら紙が…あっ、全然お構いなく!?」 ガサガサ努力していた伊澄はぴたっと動きを止めた。同時に、蚊の鳴くような声が聞こえてくる。 「あのーここ散らかってるんで、良かったら…片付いてる場所に移ってもらって、いいすかね…。」 気づけば彼は、両手で顔を覆っている。 「どわ、ど、どうしたの?」 ぶつぶつと何か言っているので耳を近づけてみると、さらに蚊の子が鳴くような声がした。 「……恥ずかしい………。」 「あー恥ずかしかったんだ…。」 って言われてもなあ…と思っていると、伊澄がおもむろに歩き始める。そしてそのまま我々は、隣の部屋に移動する。 リビングの隣の部屋は、うってかわってなにもない部屋だった。簡単なソファーがあるので、客間的な扱いなんだろうか…ここでたくさんの女子が、伊澄を巡って『修羅』を繰り広げたのだろうか。ブルッと謎の寒気がする。 ようやく落ち着いてきた伊澄とそれに腰掛けると、伊澄はどこか気まずそうに話し出す。 「えっとー…。勢いで来てもらっちゃったけど、本当は嫌ですよね、俺…いや、僕、『前科』あるし。」 「ああ、わざわざ『僕』に言い換えなくていいよ。」 「ありがとうございます。」 まあ、『前科』とは以前伊澄が私の部屋に泊まったとき、寝入りばなにのしかかられて『何か』されそうになったことですかな…(遠い目) 「確かにあれは怖かったけど、もう気にしてないから大丈夫だよ。」 「…なら、良かったです。」 伊澄はちょっとだけ微笑んだ。本当は、最悪何か起こりかけてもシズクのガードが効くだろう、という保険もあるということは言わないでおこう。…いかん、また沈黙しちまう。たまには私から話しかけなくては…。 「変な質問だったら悪いんだけど、伊澄君はなんであんなに、忙しそうにバイトしてるの…?」 正直、こんなスゲェ家と車持ってたら余裕で暮らせるくらいお金があるのでは…と思わずにはいられない。 「あー…忙しくしてた方が気が楽なんですよ、余計なこと考えなくて済むから。」 「ふうん…。私なんか、何もしなくていい時間好きでたまらんけどな〜。」 「まあ、リョウコの浪費癖見て育ったんで『ああはなりたくない』っていう人生訓みたいなのもモチベーションですね。…僕が持ってる高級品って、おおかたただの『遺品』ですよ(にっこり)」 「お、おう…。」 見え隠れする半生が、静かに壮絶だよっ!あとどうしよう、もう話題がなくなってきたよっ…すると今度は伊澄が『ところで』と口火を切った。 「あの魚が言ってた『口移し』って何ですか?」 「ん゛ふっ?!?」 「海で言ってましたよね。『口移しができなくなった』とか何とか。」 「ヴ…!」 こっこの子…なんてどうでもいい事ばっかり覚えちゃっていやがるのっ…!!まさかここで、反故にしてきたはずの『キス的行為』の釈明を求められるとは。私の尻は、ダラダラと不穏な汗でソファーを湿らせ始めた。伊澄ごめん。と思ってる間に伊澄は続ける。 「それってもしかして…俺が最初、路地裏で目撃したあれ?」 「あっ…うん…。」 頷いたとたん、なぜか伊澄の瞳に光が差した。 「『口移し』ってことは、キスしてたわけではないってことでいいんですか?」 「あっ、うん、それはもちろん、そうでございます。」 「え、わー…わ、まじか。ふぅん…。」 伊澄は不自然に目をそらし表情を隠しているつもりだが、明らかな歓喜がひしひし伝わってきている。そりゃまあ、私の事好き…とかな感じの子だもんなあ、明らかに買いかぶりすぎなんだけどなあ。 「え、じゃあ『口移し』って、何のためのものなんですか?」 「え…うぅん…。」 なんとなく、シズクと私だけの秘密にしておきたい気持ちになってしまう。 「もし良かったら…この際あのお魚について分かっていること、全部教えてくれませんか。」 伊澄があまりにも真剣な顔で見つめるので、私はごくりと息を呑む。だが… 「情けないけど、シズクについてほとんど何も知らないんだ。私の話なんか聞いても、どうしようもないかも…。」 飼い主としてまったく情けない限りだが、伊澄の目は真剣なままだ。 「俺はそう思いません。先生の村の『トモガミ』とシズクさんには、なにか関係あると思うから。」 …なんで今まで思い至らなかったのか。 「僕は僕自身の問題を解決するためにも、先生の話を聞きたい。」 『伴神』とは人間になれる動物神のことだが、ついに私の前だけは姿を現さなかった。それがシズクと関係している、もしくはシズク自身が私の『トモガミ』かもしれない…まあ、思い至らなかったのにもいくつか理由があるのだが。 まず私は、生きていた頃の親に教えられたとおり自分の家系には『トモガミ』がいないものと信じ込んでいた。そしてシズク自身が、自分のことを人間になる力があるだけの『観賞魚』だと主張していたから。 しかし私が無意識に目を曇らせていたのも、また事実だ。伊澄の言うように、シズクと『伴神』がどこかでリンクしているのなら…シズク自身も知らない彼の謎に迫ることは、『伴神』の村にとらわれる伊澄、そして育ての親をあの場所で失った私が『本当に知りたいこと』を知るキーになるかもしれない。 シズクの秘密に迫ることで、関係性が変わってしまうかもしれない。…それでも私は知りたかった。それだけイズクおじちゃんは、今でもかけがえのない人だから。 私は伴神に関するありったけの知識と、シズクと関係がありそうなことを伊澄に話そうと決めた。 「…シズクは本当に偶然買ってきた魚だったんだ。自分のことは、『人を癒やす力』が強いから人になれる観賞魚だ、って言ってた。」 伊澄の眉間に軽く皺が寄る。 「え、自分が人になることで先生を癒やせるとか、とんだ思い上がり…」 「え、まあ確かにあの時はめっちゃドヤられたな…今でも思い出せる…ってそれは置いといて。『伴神』についてだけど。村の住人それぞれの家に、それぞれの動物神がついてるってことは知ってた…よね?」 「はい、常識レベルです。」 「でも、私の家にだけ『伴神』はついてなかった。あと『魚』がトモガミの家系も存在しなかった。」 「確かに、『神』はだいたい獣でしたよね。」 伊澄は静かに腕を組んだ。 「でも先生の家に『神』はいない、って誰が言ってたんですか?それが間違ってただけかも。」 「うーん…亡くなった親から聞いた話で、嘘ついてる感じはなかった記憶あるけどなあ…。まあ確かにうちに伴神はいないかついても魚じゃない、って証明するものもどこにもない。」 「…シズクさんがどこから来た何者なのかが分からない限り、彼と『伴神』の関係はつかめない。僕らはもっと、シズクさんについて知る必要がありますね。」 「うん…。」 確かに伊澄の言うとおりだし、そうしないと何も進まない。だが、シズクをこんな『研究対象』みたいに見るのは、気が進まないなあ…私の表情が曇ったのを見てか、伊澄は突然、うーんと背を伸ばした。 「まあ、全部俺の思い違いかもだし…。なんかいちいち深刻に考えちゃうんですよね。先生は俺みたいになっちゃダメですよ。」 くしゃっと笑う伊澄を見て、胸が切なくなる。ごまかすように私は笑った。 「いやー、心配しなくても君みたいに頭良くなれないから!」 「ならいいか…。」 「…え、良いのかこれ、私的には…。」 そのとき突然、部屋のインターホンが鳴りひびく。とたんに伊澄が両手で顔を覆った。 「わー、もう?」
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