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『あの人』は、小学校の先生だった。キレイで優しい、女の先生。夏休みのある日、先生が一人で突然うちにやってきて、事件は起きた。
『どこかで遊んでおいで』と言ったおじちゃんに従って家を出たが、水筒を忘れたのでこっそり取りに戻る。すると、縁側からおじちゃんと先生の話し声が聞こえてきた。
「…あなたの気持ちには応えられません。僕には大切な人がいるので。」
「大切な人って、マキちゃんでしょう。」
「……ええ。何か問題がありますか?」
「でも、マキちゃんはまだ子供じゃないですか。…もし私が家族になれたら、私も同じくらいあの子を大切にします。」
小学生の頭にも薄々内容が分かり、私の身体は強ばる。それに、と先生は続ける。
「子供は、いつかあなたを必要としなくなります。そうなっても、私はずっとあなたのそばにいられます。」
ああ、先生…おじちゃんのこと好きなんだ。おじちゃんは、やや冷たい口調になった。
「僕たちのことに口を挟まないで下さい。」
先生は、やや声を荒げた。
「あなたはあの子に、縛られすぎてるんじゃないですか?自由になれないから、恋愛する気も起こらないんじゃないですか?」
私がおじちゃんを縛り付けている??…怖くなって、私はそこから逃げ出した。私はきっと、死ぬまでおじちゃんが必要だ。だけど、もし私がおじちゃんの自由を奪っているのだとしたら?
適当に時間を潰して家に戻ると、外はすっかり暗くなっていた。
「マキちゃん!…遅かったじゃないか!今探しに行こうと…」
「おじちゃん、先生と何話してたの。」
「…ちょっとしたことだよ。」
「…私に話せないことでしょ。また隠し事だね。」
おじちゃんの顔は、傷ついたような表情になった。私の胸も痛んだが、構わず続ける。
「分かるよ、いつものことだから。おじちゃんはいつも私に何か隠してるもんね。」
それでもおじちゃんは何も言わなかった。どうしてもおじちゃんの口から聞きたかった私は、何話してたか教えてよ!とおじちゃんにすがりつく。
「ごめん…マキちゃんには…話せないよ。」
おじちゃんの瞳は、これまで見たこともないほど暗い色を纏っていた。…こわい。本能的に感じた私は、少しだけ後ずさる。これは明らかに、いつものおじちゃんではない。焦った私は、あらぬことを口走っていた。
「お、おじちゃんはさ…私のことばっか考えすぎなんだよ。いっつも私のことだけじゃん…。もっと自由にしてていいんだよ。」
瞬時におじちゃんの目に怯えが走った。
「僕は、マキちゃんだけでいい。…マキちゃんだけがいいんだ。」
暗い瞳で私だけを見つめているおじちゃんは、いつもの優しくてふんわり笑うおじちゃんと明らかに別人だった。…怖い。でも、本当はとても悲しんでいるのが手に取るように分かる。…だからこそ私は怯まなかった。おじちゃんのために、私からはっきり言ってあげなくちゃいけないんだ。
「わ、私だって、来年中学だし…別におじちゃんがいなくても大丈夫だよ…あのね、寮のある学校が町のほうにあるんだってさ……」
「やめなさい。」
「やめない。おじちゃんがあれだったらさ、その中学に入るのもいいかなって…」
「やめろ!!!!」
おじちゃんは叫び、もう聞きたくないというように頭を抱えた。…全部、おじちゃんのためなのに。
「もう…おじちゃんなんて要らない!!…夜ご飯いらない!!」
泣きじゃくりながら私は家を飛び出した。泣き疲れて『本当のことを話そう』と帰ってきたとき、そこにはもう、誰もいなかった。
それが、おじちゃんとの最後。そこから私は、全寮制の中学校に入るため、村を出た。
・・・
もう失くしたくない、あの人みたいに。私は全力で走り寄ってシズクの腕をひっつかむ。
「すいません!!この人、私のなんで!!!!!」
「へ?あ、マキさん?」
「行くぞほらっ!ワッショイ!ワッショイ!」
私はシズクの片腕を神輿のようにかつぎあげ、連行を開始した。背中で女性の困惑した声がする。
「ちょ、ちょっと誰なの…?」
腕をかつがれているので、シズクも走らざるを得ない。
「ちょっマキさん、早いですってば…ふははっ!」
「ふへっ……ふははははっ!」
なんかもう楽しくなってきた我々は、女性がとっくに見えなくなったあとも無意味に走り続けた。
からの、今である。案の定ライフゲージが尽きた私は、見知らぬ公園で大の字になっていた。
「ゼェハァ……ゼェハヒュッ!ハァハァ……」
「だから、そんなに走らなくても良かったんですよ…楽しかったけど!」
「いや…だって…取られると思って……キレイだったもん、あの人。」
シズクが上から覗き込んでくる。瞳がキラキラと輝いていた。
「…そんなに俺の事大事なんですか?」
「…大事だよ!どこにも行かないで!!」
思いがけず大声になり、私ははっとした。シズクも目を見開く。
「俺、どこにも行きません。」
「……うん。」
私を見つめるシズクの目は、とろんとしている。なんだか私、とんでもないことを口走ったのかもしれない。けれど間違いなくそれは、本心だった。
どことなく甘い空気に耐えきれず、私はあーっ!と言いながら起き上がった。
「っていうかあの人、ナンパの人でよかったよね!?」
「あぁー…はい。ご飯どうですかって誘われてましたね、見知らぬ女性に。まぁ、今日通算4人目…すかね。」
シズクが遠い目をする。キィーン……と飛行機の音が、だだっ広い公園に響き渡った。
「帰ろっか…記録更新しないうちに。」
「…そう、ですね。もう暗いし。」
さて、と立ち上がって歩き出すが、なぜかシズクはついてこない。振り返ると、シズクは真剣な顔で突っ立っていた。
「あんな風に言ってもらえて…すっげぇ嬉しかった。」
「お…おう。」
「でもさ。」
シズクはずんずん近づいてくる。
「でもマキさんが好きなのは『イズクおじちゃん』なんでしょ。」
「…なんでその名前を?」
「昨日マキさんが寝ぼけて言ってた。…知りたいです。その人のこと。」
・・・
家に着いてからシズクに、イズクおじちゃんとは失踪した育ての親であることを話すと、シズクは難しい顔になる。おまけに私は、おじちゃんとシズクはどこか似ている気もする…と余計な一言を付け加えてしまった。
「どういう風に似てるんすか?」
「まあ、明確に似てはないんですよなぁ…おじちゃんはもっとこう、草食系というか…」
こっ恥ずかしい話題をもごもご誤魔化していると、シズクは両手で顔を覆った。
「マキさん草食系が好きだったんですね…。」
「いや、性癖トークちゃうねんこれ!!」
「え、俺はどっちだと思います…?」
「え??うーん、君は…雑食系?かな…っていや(略)!!」
「くっ、草食系じゃなかった…!ちなみに俺は、野菜ジュース飲んで草食べた気になってる草食系女子のマキさんがぶっ刺さりです!」
「うわわそんなこと聞いてないよ!!?」
ギャーッと耳を押えると、シズクはその手をどけてくる。
「ところで…なんすけど。なんとなくなんですけど、イズクさんが失踪した後亡くなったとは…なんか思えないっす。」
実は私も、そんな気がしていた。
「…どこかで誰かと家族になってたりして…。」
シズクは思慮深い目で私を見つめる。
「そうだとしたら、マキさんはどう思いますか?」
本音を言うと、おじちゃんの家族は私だけであってほしい。しかし…あの時不器用におじちゃんを傷つけ逃げ出してしまった私には、これ以外の『正しい答え』を、ずっと知らないままだった。
「…おじちゃんが幸せなら、それでいいや。」
シズクはしばらく黙り込んだ後、ぽつりとこう言った。
「マキさんにそんな風に想ってもらえて、イズクさんは十分幸せ者です…ちょっと分けてほしいくらいに。」
「…。」
「あー俺ももっと頑張んなきゃなー!くそー、寝言で名前呼ばれてみてぇ~!!」
「イジるのやめなさい!恥ずかしくなってくるでしょうがっ!」
シズクは『とにかく!』と言って姿勢を正し、キリッとした顔で私を見つめた。
「俺はずっとマキさんのそばにいますんで。なんで、いつでも恋愛的な意味で『一番好きな人』にして、寝言で名前呼んでもらって大丈夫ッス!!」
「う…、分かったからとりあえず寝言の件には触れないで…!」
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