地獄にいちばん近い酒

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地獄にいちばん近い酒

自分から伊澄に迫るような行動を取るなんて。 伊澄のマンションからの帰り道、私の脳内は混乱を極めていた。 いずれにせよ、私はまだ心の底でイズクおじちゃんに囚われていることがよく分かった。でもそれって結局、私がおじちゃんを拗らせてるってことなんじゃ… 「はぁぁぁぁぁ~っ…」 溜息をつきながら部屋のドアを開けると、部屋にも水槽にもシズクの姿はない。とりあえず、手でも洗うか…と洗面所の扉を開けたとたん、卒倒級の衝撃が私を待っていた。 「あ、おかえりなさい。」 洗面所兼浴室で私を待ち受けていたのは、全裸のシズクである。いつぞやのセクシーエンカウントの再来に、私はなんら適切な対処も取れずに立ちすくむ。 「ちょっえっあっ…!」 シズクはどうやらシャワーを浴びた直後らしく、全身から湯気を放ちつつ鏡越しに挨拶をよこし…って、おうおう余裕もいいとこじゃあないっすか先輩…などと思いつつも、この裸体なら何も恥じることはない、むしろ堂々として然るべき、いやいっそ身体を隠している湯気がちょっと恨めしいくらい…ってアンタこそ変態もいいとこっすよマキパイセン…… 脳をフル回転させる私の真顔を怒りと勘違いしたのか、シズクはにわかに慌て出す。 「あ、シャワー勝手に使ってすいません!」 「は?いやいやいやそれは全然」 しかしそのまま何を思ったか、振り返ったシズクは国宝級の裸体で距離を詰めてくるではないか。 「うごおおお!?大丈夫全然大丈夫だから!とりあえずまた後で落ち合おう…」 見ては悪いと咄嗟に目をつぶったが、無言で近づいてくる気配はなぜか一向に止まない。 「え?え??(過呼吸)」 「………。」 数秒後、ひたっと壁に手を付く音。おずおず目を開くと、眼前にはシズクの顔が迫っている。背後は閉まったドア、両サイドはシズクの手に阻まれて逃げ場がない。いわゆる『両手壁ドン』だ。全裸の。 「え、今度はなになになに??」 デンジャラス・ビューティーシズクは困惑の極みゲス乙女・マキ渾身のシャウトに動じることなく、難しい顔でじっと私を見つめている。 「…俺、この前告ってきた女の人にさあ…」 「は、はい。」 「『目が綺麗で好き』って言われたんっすよぉ。」 「あ…そ、そう?へぇぇ…」 おいおいこの状況下でなに言い出すんだ。てか、女子の告白を日常茶飯時的に言ってやるなよ。私は畏怖困惑その他諸々の感情で、『おもちゃ状態の〇ッディ』的な表情になった。そんな私になおもシズクは、真剣な表情を崩さない。 「マキさんはどう思います?」 「え、な、何を?」 「俺の『目』。」 この目がどうって…綺麗に決まっているではないか。アーモンド型で少し垂れ目で、常に生き生きとして屈託がない。でも、いつもどこか眠そうな、甘い色気をまとっている。その瞳は熱っぽく私を捉えたままで、いやがおうにも高まる鼓動の中、私はどうにか声を絞り出した。 「どうって…キレイだよ。」 『ってかエロい』と、脳内で密かに補完した。シズクはしばらく無言のままだったが、突然あっさりと『そうっすか?』と言い放つ。ただ、その視線はまだ何か言いたげに私を捉えている。 「う、うん。それより、一旦体拭きな。また後で話そ…」 『話そう』と言いかけたところで、シズクは『ん』と何かに気付いた。そのまますっと指を伸ばし、私のまぶたに優しく触れる。 「えっ、何…」 「…泣いてました?」 ドクンと心臓が跳ね上がった。 「な、何で。」 「ちょっと腫れてます。」 「…っ」 シズクは、いつもの少しひんやりした指で、そのまままぶたを撫でてくれる。その指があまりに心地良く、私は思わず目を閉じた。ゆるゆるとした快感はふいに止み、そっと頬を両手で包み込まれた。 はっと目を開けると、今にもシズクの唇は私のそれと重なり合うところだった。思わず息を止める私に気付いて、シズクもゆっくり目を開ける。 「…すいません。」 口先では謝りつつも、シズクは頬から手を離さない。ギリギリの距離で触れ合う唇がくすぐったくて、さらに鼓動が早まっていく。 「…キスしていいすか?」 焦る気持ちと、抗いがたいシズクの魅力でくらくらする。 「え…あ。」 「すいません、もう限界……」 「……」 ふわふわした気持ちのまま思わず目を閉じた瞬間、洗面所の外でけたたましい着信音が鳴り響いた。 「……。」 「…………。」 お互い動きを止め、しばし相手の様子をうかがった。着信音は、シズクが仕事で使っているスマホのものだが、シズクは一向に動き出さない。 「えっとー…出ないの?」 「んあー……んーーー。」 「……。」 「……出ます。」 シズクははぁーーーっとため息をつき、身体を離す。 「ああ…私が取ってくるよ。」 「あざっす…」 がっくり両手で顔を覆ったシズクに背を向け洗面所を出たとたん、ボワッと顔から火が出た。 …私も残念て…思ってしまった…キスできなくて…!!!! 気取られぬよう何食わぬ顔(当社比)でスマホをシズクに手渡すと、どうやら電話は配達依頼らしい。が、まことに珍しく、電話を切ったシズクは少しだけ眉をひそませていた。 「何かあった?」 「あー、全然…。ちょっと、仕事行ってきます。」 シズクの笑顔がややぎこちないのは、キス未遂だけが原因ではなさそうだった。 ・・・ 翌日。 午前1発目の授業が終わったタイミングでスマホを開くと、普段は企業アカウントからのお知らせアプリと化しているラインに着信がきていた。 伊澄だっ…!! 確かに、近いうちに会ってこの前のことを説明したいと思ってはいたが…。ここまでアクション早いとは。しかも向こうから来るとは。…想定外で過呼吸なんだけど…。 『昨日はごめんなさい』 『私もごめんなさい』 『会って話せますか?』 『大丈夫です。いつがいいですか?』 自動返信的な文面になってしまったが、お互い様だ。とりあえず今夜集まることになり、私は過呼吸気味のままアプリを閉じた。 シズクに留守番を頼み、我々は前回も集結したカフェの個室に集まった。『夜はバー化』というシャレオツカフェの習性に則って、チルくてコージーな雰囲気が伊澄にとてもよくお似合いのバーで……お察しの通り、私にとっては完全に異空間だ。今夜も異空の覇者・伊澄の威を借り、どうにか入店した次第であるが…席に着き一段落した所で、伊澄の表情がやにわに険しくなった。 「…昨日はすみません。助けてもらった上でキレて追い出すとか、本当子供っぽかったなって。」 「いや、そんなことないよ…そっちこそ、私の事怒ってるでしょ。」 「怒ってるっていうか…正直、色々気になってしょうがないです。」 「『イズクおじちゃん』の事だよね…。話すよ、そのつもりだったし。」 私は伊澄に、『イズクおじちゃん』とは失踪した育ての親のことであり、失踪からすでに20年近く経っていること、そして私自身が心のどこかでおじちゃんを追い求めているかもしれないと考えていることを伝えた。 「そんな事があったんですね。」 「うん。割と壮絶ってか凄惨でしょう、私の過去も。」 「俺とお揃いか…」 「何でちょっと喜んでんの…?」 「それはそうと、イズク…ですか。『シズク』と語感が似てますね。」 「ああ、たしかに。」 というかというか、と私は仕切り直す。 「あのー、それと。昨日の私の所業は……できるだけ早急に忘れてくれないか。自我を失ってたとはいえ恥ずかしすぎて、生きてゆかれぬよ。」 「いや……無理…じゃないですかね……」 「く、口先では許しつつ心の底でまだ憎んでるやつやん……!」 心の声ダダ漏れでビビり散らす私に、伊澄はいや、と片手を前に出し制止する。 「怒ってるとかそういうんじゃなく。」 「そりゃビックリしたよな怖かったよな?肉食アラサーおばさんとか、恐怖でしかないよな??」 「びっくりはしましたけど。忘れれないのは、なんて言うか……すげーエロくて…」 伊澄は言いつつ、恥ずかしそうに手で口元を覆った。案の定耳が赤い。私も顔から火を噴きながらまくしたてた。 「とにかくもうああいう事!しないつもりですので!!」 「……。」 伊澄は返事するでも目を合わせるでもなく、どこかつまらなそうに水を飲んだ。何か言いたそうなのは分かるが、突っ込まない、突っ込まないぞ… 「…先生は嫌でした?」 「えっ?」 正直言って、正気を失ってたとはいえ嫌ではなかったしむしろ…という感じだ。伊澄の経験が豊富すぎて、経験が浅すぎる彼氏無しアラサーには効果絶大だっただけだろうか。 「あぁ、物足りなかったか……すいません正直、あの瞬間日和ってました。次は最初からもっとガチのやつを…」 「うわあガチのやつとか怖すぎるよ!前回のもたいがいガチだよ!!」 伊澄は私の反応を楽しみつつははっ、と笑う。いかん。このままでは完全にヤツのペースに飲まれる。いつもいつものことではあるが。 発注した料理をもそもそ食べているだけではいよいよダメな気がしてきたので、無理やりにでもイニシアチブを取らねば……!!焦った私は、勢いよくメニューを手に取った。 「せ。せっかくだし先生、お酒頼んじゃおうかなっ!」 「…大丈夫なんですか?」 「大丈夫?何が?」 「いや…多分ですけど、悲惨な未来しか見えない気がして。」 「何言ってんの!大丈夫大丈夫(多分)」 ・・・ 勢い勇んで発注したハイボールを飲み干してから数分後。私はしっかり酔っ払いの最終進化形態へ進化(退化とも言う)を遂げていた。 「伊澄君ってほんっと可愛い顔してるよねぇ~~店員のオネエチャンも、君のことチラチラ見てるぞぉ!」 「…昨日人に偉そうな事言っといて、自分が酔ったらどうなるか全然分かってないですよね?しかもセクハラする酔い方とかこのご時世一番ヤバいやつですよ」 「はぇー知らんかったサンガツ!いずみんもふもふ」 「…頭触るのやめてね?一緒にいたのが『いずみん』で、本当助かったね??」 エヘエヘエヘヘと頭を撫で回していると、伊澄に突然手を掴まれた。 「もう今日は帰りましょう!送るから!」 「どこ行くん?舞浜??」 「もーほら。閉園でーすさっさと京葉線乗って帰ってくださーい」 「帰りたくないっ!でっかいフリーフォールに住むっ!!」 「そのワードチョイスはさっきからなんなの?」 「セーフティーバーにしっかりと掴まり…手を外に出さないで……2列目のお兄さーん安全ベルト引っ張って、見してくださいねー………ぐぅ」 頭の半分で眠りながら、右折し忘れかけたのを直前で気づき、サッとウインカーを出した伊澄を見逃さなかった。 「あっいま曲がるとこ忘れたでしょ。」 「うるさいな…忘れてない。ってか曲がれたし。」 「どーせ、帰したくないわ~とか考えてたんだろうねぇ!」 伊澄は前を見つつ、やや目を細める。 「…帰るんでしょ?」 「え、あ…」 「じゃあ帰らないんですか?」 「…おーし!シーかランドかどっちがエモいか語り明かそうや君んちでッ!」 伊澄は少し考えた後でふはっ、と笑う。 「でも俺、手に負えない酔っ払い嫌いなんだよなー…良い子できる「できる。」 「あーそう。録音回しといて良かったー。」 「ろくおん??」 「冗談ですって。そもそもドラレコあるから回す必要ないし。」 恐ろしげなことを言われている気配を感じつつ、私はちゃっかり伊澄宅に舞い戻る羽目になっていた。 伊澄の部屋に入った瞬間、私は即座に彼の背後を取る。そのまま両手を伸ばし、脇腹をくすぐる。 「…たまには笑えやこのイケメンッ」 「は?ひゃははははっ、やめて下さ…やめろ!!」 「ごめんなさい。」 秒で鎮火した私は、即座にフローリングに正座する。怯えて縮こまる私に、伊澄はしゃがみ込んで目線を合わせてきた。 「マジでどうにかなんないですか?そのテンションと言動。」  「だって……いつも難しい顔してらっしゃるから……たまには笑ってほしくて…」 「そんなふうに見られてたんですか、俺。」 私はうん…とうなずく。 「でも、そんな顔になるのは仕方ないよね……だって、どっちも別ベクトルでエモいもん…」 「え?」 「…悩んでも答えなんて出ないんだよ。シーもランドも満足体験しか用意されてないから。強いて言うなら選ぶポイントは『誰に会いたいか』だよ…黄色いクマか茶色いクマか…」 「…もしかしてまだ浦安の話してんの?」 ビキ…と伊澄の額に血管が浮くと同時に、私は床に突っ伏した。 「スースー……フガッ!スースー……」 「寝んな。」 伊澄ははーっとため息をついた。 「こう見えて先生と会う前よりは、ずっと笑うようになったんですが。」 気が付くと、私はベッドに体を横たえていた。どうやら伊澄が運んできてくれたらしい。ベッドの端には伊澄が腰かけ、私を見ていた。 「酔い、覚めました?」 うんと私は頷いた。 「昨日…本当にごめん。自分でも気付かなかったけど、私、おじちゃんのこと全然吹っ切れてなかったみたいでさ。」 言いながら、涙があふれてくる。伊澄は何も言わず、私の言葉をただ待っていた。 「自分の本心に気付けたのは…陶野君のおかげだよ。昨日のことがなかったら、今みたいに泣けてなかったから…泣いちゃったら、まだ忘れられないのを認める気がして…」 みっともない泣き声を上げる私の横で、伊澄はベッドにそっと腰かけた。 「…俺たち、寂しい者同士ですね。」 「うん、そうだね…。」 「俺にも、泣きたい時あります。その時は…頼ってもいいですか?」 私は黙って伊澄の手を取り、頷いた。伊澄は俯き、小さな声で『ありがとうございます』と言った。 しばらく無言で手を取り合っていたが、伊澄はふいに顔を上げる。 「さて、そろそろ『お魚』が心配してる頃じゃないですか?」 「そういえば、もう結構遅いから多分…。」 「泊まっていってほしいのはやまやまですが、魚に殴り込まれても面倒だし…というか、このままだと普通に手出しちゃいそうなので、送っていきます。」 「え…いいの!?」 「…んー…だめって言っても帰りたがるくせに。」 伊澄は困ったようにふっと笑うと、寝室から出ていってしまった。私も急いで後を追う。 ・・・ 伊澄と別れてからも、私はぼんやりと考えていた。 『寂しい者同士』だと伊澄は言った。伊澄はこれまで、ずっと一人で涙を流してきたのだろう。 誰にも話せないような苦しみや不安で頭が埋め尽くされてどうしようもない時そばにいてほしいのは、きっと一番大切な人だ。 誰かにとって自分がそんな存在になれるなんて…少し前の自分には、全く想像もつかなかっただろうな。 部屋に戻ると、シズクは私の疲れた様子をみてとったのか、水槽でじっと過ごしていてくれた。おかげで私も、ゆっくり休むことができた。
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