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2人と出会っただけなのに
その日の夕方、伊澄からメッセージがあった。
『母の日記を読み、重要な事が判明しました。会えますか?』
伊澄の母・涼子さんとは、私の出身地についての研究家だ。涼子さんは、夫を亡くした悲しみで自殺したと考えている、と伊澄から聞いていたことも、ふと頭に浮かぶ。なぜか私は、ひどい胸騒ぎを覚えた。
『次の授業が終わったら迎えに行きます。』
・・・
待ち合わせた伊澄は、これまで見たこともないほど深刻な顔をしていた。
「涼子さんの日記に書いてあった事…私にも関係してることなんだね。」
伊澄は黙って頷いた。
「僕の部屋で話しましょう。」
伊澄の雰囲気に圧され、何も言えないまま我々は彼のマンションに到着する。
「適当に座って下さい…片づけておいたんで。」
「う、うん。」
確かに伊澄の部屋はどことなくすっきり片付いている。伊澄は私の向かいに腰を下ろすと、ポケットからUSBメモリを取り出してみせた。
「母の日記のデータが入ったUSBメモリです。ずっとパスワードが分からなかったんですが…『イズク』、それが答えでした。」
「それって『イズク』が、涼子さんが最後まで探してた夫の名前ってこと……?」
「ええ。本文中に夫の名として記してありましたから間違いありません。先生から彼の話を聞いて…もしやと思い試してみたんです。」
強いめまいに襲われ、私は額を押さえる。
『イズク』が涼子さんの夫?
つまり、『イズク』は伊澄の……嘘だ、そんなことあり得ない、あってはいけない…!しかし、伊澄は静かに告げる。
「状況から判断して、あなたの育ての親であるイズクさんは…僕の生物学上の父と同一である可能性がとても高い。」
「…!!」
知らない間に、おじちゃんが知らない人の父親になっていた。それも、伊澄の…。伊澄は感情の読めない瞳で、伏し目がちに話し続ける。
「母の日記によれば、僕の父は、村のふもとの川に流れ着いていたところを母に助けられたそうです。回復してから、自分は村から来たと言ったそうで……それ以外のことは、何も語ろうとしなかったとか。」
伊澄が語れば語るほど、重い内容が現実味を帯びていく。それでもまだ、『イズク』が『イズクおじちゃん』である確証はない。
「父親の写真は残っていないの?」
「1枚も。父と母が一緒に過ごした時間は、とても短い間だったようです。」
確かに以前、父親は伊澄が生まれたときにはすでに亡くなっていたと聞いた。私はおじちゃんの面影を伊澄の中に探すべく、じっと見つめる。視線の意味に気づいたのか、伊澄の眉間が少し険しくなった。
「…僕は涼子にばかり似ている、と親類によく言われるんですよ。確かに、僕は彼女に生き写しで…それ以外の人間の特徴を、すっかり置いてきてしまったようなね。」
伊澄はふっと悲しそうに笑う。私は最も聞きたくない、それでも聞かずにはいられない質問を投げかけた。
「『イズク』は最後どうなったか、日記に書いてあった?」
伊澄はUSBメモリをそっと撫でて言った。
「海岸でいつの間にか姿を消して、それ以降どこを探してもいなかった…と書いてありました。捜索願も出したようですが、もちろん遺体なども上がっていません。」
ふっといなくなるなんて、『おじちゃん』らしいな…。私はいつの間にか、到底受け入れられないはずの、『イズク』が『イズクおじちゃん』であるという事実を受け入れていたようだった。
伊澄はふいに手を伸ばし、机の上に置かれた私の手に重ね合わせる。
「僕たちは…姉弟になるのでしょうか?」
その瞳は今にも泣きだしそうに潤んでいた。だが、私は静かに首を振る。
「おじちゃんとはね、血縁関係も戸籍の登録もなかったんだ。」
「よかった……。」
伊澄の瞳から涙が落ちる。私は片方の手で、伊澄の手を包み込んだ。
「俺、先生と血が繋がってたらどうしようってめちゃくちゃ悩んで…パスワード試す時もめちゃくちゃ怖くて…!!」
私は泣きじゃくる伊澄の元へ行き、よしよしと頭を撫でてやる。
「…よく頑張ったね。」
「すみません、先生も辛いのに…俺ばっか…っ。」
私はゆっくりと首を横に振る。
「おじちゃんのことは、もういいんだ。おじちゃんもね、最後に涼子さんと出会えて…幸せだったと思う……。」
笑顔で言い切ったはずなのに、なぜか私の目からはぼろぼろ涙が零れ落ちていた。
「…あれ、なんで?あはは…」
「…っ。」
伊澄が強く私を抱きしめる。伊澄の身体は小さく震えていて、それでもとても温かくて、涙が止まらなくなる。
私たちはそれからしばらくの間抱き合っていたが、ふいに強い眠気が私を襲う。
「ごめん、なんか、眠くなってきた……ショックが強すぎたかな…。」
「すみません、一度にたくさん話しすぎましたね。ソファー使ってください。」
私はそのまま、伊澄のソファーで少し眠らせてもらうことにした。
・・・
甘いお菓子の匂いで目が覚める。
起き上がると、伊澄がキッチンでパンケーキを焼いていた。
「先生も食べませんか?」
「…君、パンケーキとか焼けるの??」
「今まさに焼いてるじゃないですか。」
だって全然料理しなさそうじゃんと思いつつパンケーキが並んだテーブルに向かうと、それはもうふわふわぷるぷるのパンケーキがどどんと皿にそびえ立っている。
「すごっ!お店のやつじゃん!!」
「バイトで作ったりしてるので。」
伊澄はどこか得意げだ。
「…うま!やば!溶ける!!」
「ちゃんと味わってます?」
「いや味わってる味わってる!ってか味わう間もなく溶ける!」
伊澄はくしゃっと笑い、頬に肘をつく。そのままじっと私が食べるところを眺め始めた。
「…ど、どうした?食べないのか…?」
「いや、俺が作ったもんを先生が食ってる…と思って。なんかいいですね。」
「大丈夫?なんか、変な目で見てない?」
「もう今更じゃないですか。」
「…。」
気まずさに、私はごくんとパンケーキを飲み込む。伊澄は手元のアイスティーを一口飲むと、少し真面目な表情になった。
「さっきの話の続きで、あくまで推測にすぎないんですが…俺は、イズクが先生の家系の『伴神』的存在だったのではないかと考えています。なにかのきっかけで先生の家系から消えたが、先生が両親を亡くして1人になったとき、『育ての親』としてあなたを守るため、人の姿になって戻ってきた。最終的に海で姿を消したのも、魚になって海に帰っていったと考えれば自然ですし。」
イズクおじちゃんが私の守り神だったということか。伊澄の説明はすっと理解できた。私の家にだけいなかった神様は、実はいつも一番近くにいたんだ。
伊澄は決心したように『先生』と声を上げた。
「俺、伴神についてもっと研究します。俺のためにも…先生のためにも。」
「うん…ありがとう。」
「手始めに、来月からイギリスへ留学しようかと思います。」
「い、イギリス??」
「母の研究を引き継ぐと言ったら、母の知り合いの研究者がこっちでやらないかと声をかけてきて。2年くらいで帰ってくる予定ですが。」
「そうなんだ、にしても、急だね…。」
伊澄が来月からイギリス…??正直戸惑いを隠せない。すると伊澄は『んー』と何かを迷っているように見えた。
「…一緒に来ます?」
「えっ?」
「留学を機に結婚もいいですね!先生が良ければですが…」
「ちょっ、っとまちなさい陶野君、先生1ミリも追いつけてないんだけども」
「家、仕事、車付き。それになんと…俺も付いてきます。」
伊澄はにっこり笑う。あのねえ…と言いかけると、ま、と言いながらぽすんと私の頭に手を置いた。
「…結婚については、とりあえず俺が帰ってくるまで考えといてください。」
「君はまた、さらっととんでもねえことを…!」
「がっしり胃袋掴みましたよね?」
「え、これってそういう意味のやつなん!??怖っ!!」
・・・
伊澄と別れて部屋に戻ると、私はシズクにも今日伊澄から聞いたことを伝えた。
イズクおじちゃんは、伊澄の父親かもしれない可能性が極めて高いこと、
おじちゃんはおそらく私の伴神で、魚の姿で海に帰っていったと思われること…
話し終わると、シズクは深く考え込んでいた。
「イズクさんが人間になれる魚だったとすると…俺もその、『伴神』…の仲間なんでしょうか?」
「まだ分からないことだらけだけど…恐らくは。伊澄がこれから研究を進めてくれるかもしれないね。」
シズクは私の手を握る。
「イズクさんがあなたを守る存在だったのなら…俺がその役を引き継ぎます。俺に守らせてください。」
「ありがとう…。」
「でもまだまだ私も守ってあげないとだけどね?囚われのお姫様だし、変身も安定しないしね??」
「それはもういいでしょ!!絶対克服しますし!!」
・・・
一か月後、空港にて。
「マキさんのことは俺に任せて…行ってこいや。」
「2年で戻ってきますし、先生とも連絡取り合うつもりですけど。どうせ先生に何かしでかす度胸もないでしょうし…その辺は安心してますので。なにより、研究のため先生にはこれからも『個人的』かつ『親密』にお付き合いしていただくことになりますので、どうぞよろしくお願いします。」
「こ、このぉ…!」
伊澄はひらっと手を振ると、至ってクールに出国ゲートへと消えていく。
「飛行機の中で泣いたりしないかしら…お母さん心配…。」
「とにかく俺、頑張らねえと…!この2年で先に結婚までもっていかねえといかないんで!こうしちゃいられねえ走りますよっ!」
「な、なんで!?」
シズクは勝手に私の手を取り走り出した。全力で走るシズクに振り回されながらも、私はなぜかけたけたと笑っていた。
私の過去も日常も、信じられないくらい輝き始めたんだ…
あの日、魚を買って、2人と出会っただけなのに。
(おわり)
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