シェイプ・オブ・ウォータードロップ

1/1
前へ
/19ページ
次へ

シェイプ・オブ・ウォータードロップ

部屋のドアを開けた瞬間、シズクが飛び出してきた。同時に、一瞬で戸惑いの表情になる。 「おかえりなさ…。」 「説明は後で。とりあえず、失礼します。」 伊澄がお構いなしに足を踏み入れると、シズクは反射的に伊澄の肩を掴んだ。 「おい!」 しかし、伊澄もなかなかの剣幕だ。 「張り合ってる場合じゃないでしょ?状況見て下さいって。」 シズクはウ゛…等うめき続ける私を見てやや冷静さを取り戻したようだが、目つきが尋常じゃないくらい怖い。ていうかこいつら、放っといたら殴り合いでも始めるんじゃないの??私の部屋でさ…!頭痛に加えて謎の心配事が増えた私の頭は、いよいよ本格的に痛み始めた。 「…ッ」 「あ、やべ…すみません。」 伊澄はシズクを置いてさっさと私をベッドに横たわらせると、中腰で話しかけてきた。 「ゆっくり休んでくださいね。」 「ありがと…「言われなくてもそうするわ。」 「こらっ!」 「先生は休んでて下さい!…帰りますよ。これでいいですよね?」 しかしシズクは、去りかけた伊澄の前に立ちふさがる。 「状況くらい説明してけよ。大体でいいから。」 伊澄は渋々という感じでうなずいた。 「…昨日から僕と先生は2人で出かけてました。誤解の無いよう言っておきますけど、出かけた理由はあくまで『僕の』わがままです。 あと、行き先遠くて割と早い時間に電車無くなって外泊はあくまで『仕方なく』。それから普通に別れて帰る予定だったんですけど、帰りの電車で先生が体調崩して、部屋まで送ることにした。以上。 …とにかくこの件に関して先生は何も悪くないんで、言いたい事あったら全部俺にぶつけて下さい。」 伊澄はいともスラスラと言い終えたが、シズクの理解はいまいち追い付いていないようだ。 「はぁ…。」 もしかしたら、『ガイハク』の意味を知らないのかもしれない。要領を得ないシズクの反応に、伊澄はだるそうに息をつく。 「特にないみたいなんで、失礼します。先生、また来ますね。」 「え…?」 「はぁ!?おいっ」 もう来んでええよー!!全力の心の叫びは声にならず、空しくわが胸の内でこだましたのだった。 ・・・ 伊澄が去った後、部屋は何とも言えない空気が流れた。シズクはしばらく呆然と突っ立っていたが、突然私にかがみこんできた。 「空気悪くしてすいません。」 「え?あぁ…いいよいいよ?!」 シズクはふいに私の額に手を置き、悲しそうに目を細める。 「…まだ辛いですか?」 「えっ…あ、うん。」 あぶねぇ、うっかり恋に落ちそうになったわ…頭も痛いけど、今君にそんな顔されたら色気すごすぎてヤバイんだよ色々… シズクは黙って目を伏せつぶやいた。 「そうですか。何か俺に、出来る事あったら…」 「あ…じゃあ、頭痛薬買ってきてもらえるかな?」 シズクは一瞬ぴくっとしたが、すぐにいつもの忠犬スマイルに戻った。 「あ、じゃ、行ってきます。」 「ありがとう。」 「何かあったらすぐ呼んでください。」 シズクは私の手にぎゅっとスマホを握らせてから、笑顔で部屋を出て行った。一人になった途端なぜか私は少し不安になったが、いつの間にか眠っていた。 ・・・ 薬局に到着したシズクの脳内は、魚生史上最大の混乱を極めていた。いやいやマキさんとあのヤバい男が『ガイハク』てさ…普通にヤバいだろ 「いらっしゃいませー」 まさかとは思うが、同室じゃないよな?ていうか『わがまま』って何??ていうかマキさん仕事って言ってなかった?? 「1470円になりまーす」 状況説明されたけど…肝心なとこ明かされてなさすぎて何がどうなってんのか全っ然わかんねぇわ 「ありがとうございましたー」 途端、目の前に人影がよぎる。 「あっあのっ!」 「うぉわ。」 やばい、超ナチュラルに前見ないで歩いてた。今度から気を付けよ。行く手をはばんでいたのは、大学生くらいの女子だった。 「…すいません。」 軽く会釈して通り過ぎようとしたが、なぜか呼び止められる。 「ち、ちょっといいですか?」 「え?」 目の前の女子の顔は、なぜか真っ赤だ。 「いきなりごめんなさい。SNSであなたを見かけてから一度お話してみたいと思ってたんですっ。」 予想外の出来事続きで、シズクは一瞬思考停止した。えすえぬえ…あーマキさんがよく見てるやつか。そういえばなんか前もこんな感じで声かけられたな…ていうかこんなとこで時間食ってる場合じゃない。焦ったシズクは、やや冷たい声になる。 「…なんで?」 「え、なんでって…。」 「すいません、何でもないです…あとごめんなさい、ちょっと急いでて。」 強引に去りかけると、今度は腕を掴まれた。意外と力が強くてびっくりする。 「待って下さい!!ずっと探しててやっと会えたんです、だからせめて連絡先受け取って下さい!」 シズクの頭に、シンプルな疑問が浮かぶ。 「…何でよく知りもしない人に、そんな拘れるんですか?」 見知らぬ女子はえ、と言いやや後ずさった。 「なっ何でって…。好きになっちゃったから…。」 え、話した事もないのに?疑問はいよいよピークになって、いよいよ帰りたい。しかし彼女は勝手に語り出してしまっていた。 「名前も知らないのに、気持ち悪いですよね。でも付き合ってる人いるのかなとか考え出すとしんどくなってきて、何か行動したいって思ってたんです。」 「それがいわゆる『好き』なんですか?というか『好き』って、どういう事なんっすか??」 「…え?」 明らか引いてるけど、まぁいいや。シズクは構わず畳み掛ける事にした。 「それって、『好き』な相手が他の奴と仲良くしてたら腹立ったり、その人に頼られたら嬉しくなったり離れてても早く顔見たいなって思ったり…とかですか。」 「え…あぁ、たぶんそんな感じだと思います…。」 俺…マキさんの事、恋愛的な意味で『好き』だったんか。分かってしまえば、なんてことない気分だな。 シズクはきちっと礼をし、踵を返す。 「ありがとうございました。」 「あ、いえいえ…えっ?」 シズクは結局連絡先も受け取らず、マキの部屋まで走り出した。 いつの間に好きになってたんだろ。っていうか、あれ?ペットが飼い主の事を恋愛的な意味で『好き』って結構やばいのか? 新しい悶々が増えたような気がするが、とりあえずせめて今は普通にしていよう。シズクは笑顔を作り、ドアを開ける。 「マキさーん、薬買ってきましたよ。」 「あ、ありがとうっ!」 「あの…なんか大丈夫ですか?」 マキさんはピッと小鳥のような変な声を上げビクンとした。 「いやー…あ、あのさー。行ってもらってから気付いたんだけどさあ。」 「…はあ。」 「良かったらあの…前やってもらった『あれ』やってもらったら~今回も一発で治るんじゃないかなあ~~~とか…図々しくも思ってしまい…。」 「『あれ』とは…あーあの、『口移し』ですか?」 「えっ!あっ!あぁ…うん、はい…。自分から言うことじゃないのかもしれないんだけど…。」 マキさんは顔を真っ赤にしてうつむく。正直頼られてめちゃくちゃ嬉しい。家出る前のタイミングで頼まれなかったのは、単に忘れてただけか…。嫌がられてた訳じゃないと知り、ちょっと安心する。 「じゃあ、口開けて上向いて下さい。」 「あ、ふぁい。」 前と同じように軽く顎を持ち上げ、口をつけようとした瞬間ふと気付いてしまった。 これって普通…『好き』同士がやるやつだよ???? 気付いた瞬間ぶわわわわわと何かがこみ上げる。同時に俺は、マキさんから飛び退いていた。 「あ、あれ…なんか…ごめんなさい…。」 しかし俺の発声と同時に、マキさんも同じ距離だけ飛び退いていた。 「ごめんごめんごめんっ!」 「え!?あ!いやいやいや!?」 「いやごめんホント。ホンットすいません!!」 「な、なにをおっしゃいますやらっていうか全然、俺の方が全然アレなんでっ!」 絶叫に近い応酬の後、はぁ、はぁという謎の息継ぎだけが部屋に響く。…てかさっきのぶわーーてなに!?震えながら脳内で『???』を消化していると、マキさんはめちゃくちゃ明るい声を出した。 「とりあえず薬飲むよっ!ホント、なんかごめんね!」 「あ、はい。どうぞ…。」 「ありがとありがと。ゴクッ!はいもっかい寝るわ!」 「あ、ああはい!」 マキさんは謎のテンションで意気揚々と布団にくるまり、そのまま何も言わなくなってしまう。失望されたのかもしれない。ハンマーで殴られた後みたいにショックだ。ハンマーで殴られた事はないけど。 ・・・ 翌日。あれからなぜかお互い避けるように夜を明かし、マキさんは何事もなく仕事に出て行った。 「行ってきまーす^^」 「行ってらっしゃーい^o^」 バタンとドアが閉まってから俺も外出の支度を始めたが、昨日の事が頭にありすぎて仕事する気にはなれない。結局近所の川沿いの手すりにもたれかかり、ぼーっと昨日の事を考えることにした。 知らない親子が楽しそうに散歩をしている。 「ママァーいけめんがたそがれてる〜」 「しっかり目に焼き付けておくのよ。目に良いから。」 …自分の感情に振り回されて、マキさん助けられなくてどうすんだ。そもそも、ペットなんかに恋愛感情抱かれても、迷惑でしかないだろ。 ぼんやり目の前の水面を見た。 俺が居るべきは、結局こっちか。 …もう、人になるのやめよ。 ・・・ 1限目の講義が終わり、教室内を見回してみる。が、そこに伊澄の姿は見当たらなかった。昨日、駅まで送ってくれた礼を一応伝えたいところなのだが…。 しかしまあ一応も一応、ホントに一応だけどメッセージアプリのIDは手元にある。しかし、これを使って伊澄を呼び出す…など死んでも行動に移したくはない。 『生徒と教師の不適切な接触』…吹けば飛ぶような非正規の私がこの大学で生きていくためには、何よりも注意すべきポイントだ。いやまさかこの私がこんな桃色シチュエーションを恐れる日が来ようとは。しかも相手はイケメンハイスペック伊澄。あなや恐ろし陶野伊澄……。 学生が出払った教室で大きなため息をつくと、ちょっと気分が落ち着いた。ま、心配しなくても、いずれ会えるだろうし…今後のことはいま考えても、仕方ないよねっ。 しかし、教室を出て角を曲がった先に、伊澄は普通に立っていた。 「グェッ!と、陶野!…君!」 『君!』と同時に無意識で『シェー』的ポーズを取ってしまったが、その痴態は至ってクールにスルーされた。 「お疲れ様です。」 「おっ…つかれざま…す…」 我々二人の間にたゆたう空気は、ガンガンに冷え切っている。ちょちょ、えっ。いちおう目上が無意識に面白ポーズしたんだよ。ツッコミとは言わないまでも、微笑みくらい、よこしてよ……。しかし伊澄はにこりともせず私を見つめたままだ。これでは微笑がえせない。 「昨日あれから、大丈夫でしたか?」 な、なんや心配してくれとるんかい…。ほなええけど、と私は即座に往年のヒットギャグ的ポーズを解除し、ついでに気持ちも切り替えた。 「うん、送ってくれてありがとね。」 伊澄は黙って頷いたが、同時に若干気まずそうな顔になった。 「…待ち伏せみたいな事してすいません。」 「え?いや…」 「…連絡なかったから。」 伊澄の暗い瞳がやや翳る。同時に謎の罪悪感が胸をよぎったが、その痛みを『倫理観』が即座に上書きしていった。 「ま、まあ、授業終わりに教室とかで話しかけてくれても、全然いいし。」 あは…と愛想笑ってみたが、伊澄ははぁーとため息をつく。 「学校で話しかけたら嫌がるくせに…」 「えっ、い、嫌がってないし…。」 「…。」 視線が痛いが、当然である。なぜならあまりに図星すぎた。 「学校で話しかけると、拒絶のオーラみたいのが出るんですけど。」 「そ、それは…単に学生と話し慣れてないだけだから、べつにあなたが嫌とかではなく…。」 しかし伊澄は私の内心を見透かすようにたたみかけてくる。 「今時、教員と学生がアプリでやり取りなんて普通ですよ?それに僕は、先生の出身地についてもっと教えて欲しいことがある。」 「それならこうやって、学校で直接話せばいいじゃない?」 「学内で会ってばかりだと、それこそ誤解されかねないですよね?」 「で、でもーーー…」 ぐぬ、鋭い…。返す刀を研ぎ澄ます余地がない。すると伊澄はふいに落ち着いた声色になる。 「論点を変えましょう。」 「え?」 「僕にこれ以上近づかれたくないなら、この場で僕を拒絶して下さい。」 「…?」 伊澄の顔はちょうど逆光でよく見えなくない。 「先生がどうしても僕と個人的に繋がりたくないのは大体分かりました。なので、いっそこの場ではっきりそう言ってもらえれば、僕サイドで諦めもつくかと。」 予想外の展開に、私の脳内はバグり出した。しかし伊澄は全然止まらない。 「さっき先生の出身地が〜とかどうとか言いましたけど、個人的に連絡取りたい理由なんて下心しかないですよ。」 「なっ、ちょ…」 「僕は先生の事が知りたいし、先生に僕の事も知ってもらいたい。」 ふいに、彼の凄惨な過去が思い出される。私もこの子くらいの時、自分に優しくしてくれる誰かが欲しかったなあ…と思い至る。…恋愛的な意味で仲良くできる気は皆無だけど、この子にはそういう人間が1人くらいは必要なんじゃないか?? ええい、保身のことだけ考えて生徒を見捨てるなど、なにが『講師の倫理観』ッ!私はヤケクソにスマホを取り出し、得意の芝居を打ち始めた。もうこれ演技派すぎて、アカデミー主演女優賞だよッ! 「うーん実はさあ、友だち登録?とか、やり方わからないんだよねぇ。こういうの、もはやババア認定受けちゃうのかなあ……まあ別に自分が若いとも思っちゃいないけど…」 「…はい?」 ポカンと口を開けた伊澄の肩から、リュックがずり落ちる。そして私は咄嗟に伊澄に近寄り、音量マックスの忍び声で息巻いた。 「おっ、教えなさいよやり方っ!」 「は?わ、分かったからでかい声出さないで下さい!そんな心配しなくても人いませんし…。」 ハッと我に返ると、イケメンのお怒り顔が至近距離だ。私はひぇっという奇声とともに距離を取る。 「な、なんかすいません。」 「いや別に…ていうか何なんですか、急に…。」 伊澄はなぜか明らかにキレている。しかし耳まで赤くなっていて、それを見た途端なぜか私も猛烈に恥ずかしくなった。 「…スマホ貸してもらえますか?」 「あ、うん…」 手汗まみれのスマホを渡すと、伊澄は不自然な湿り気をものともせず何やら操作し始めた。そしてものの数秒で、なんなく目的を達成する。 「はい、できました。これで僕と先生は、『お友だち』です。」 伊澄は真っ赤な耳のまま、むっすりスマホを突きつける。 「あ、そう…。」 っていうかこれが最近の子のアカウントか…私はあまりに物珍しい物体を、それはもうまじまじ見つめてしまった。しかしさっきからやや調子が狂い出している伊澄も、なかなかに不穏だ。 「…しつこく送らないで下さいよ。バイト中とか寝てる時とかは返しませんから。」 そりゃそうだろ。と返すつもりで顔を上げたが、なんと伊澄はすでに踵を返し歩き出していた。 …脚長ぇから、アホみてぇに速ぇわ、あの子。 っていうか登録の手際、異常に良かったな… まあいっぱい色んな女の子とあーして、連絡先交換してきたんだろうな…… ・・・ いつも通り部屋に戻ると、シズクは珍しくすでに水槽で泳いでいた。 「あ、もう魚なの?」 ああ、もしかしてもしかしなくても、今朝の私の態度が原因なんだよなあ……。まあ、でも明日になれば、また話してくれるかな。 それでも次の日も、シズクは魚のままだった。 そして翌日、その翌翌日も、シズクは魚のままなのだ。 「…まだ怒ってる?」 魚のシズクは、何も言わずに私を見ている。もしかして、もう人間には戻れなくなったのかな?いや、やはり私を拒絶しているだけなのか…。この辺の男心を誰かに相談したいのだが…あいにく手元には伊澄の連絡先しか…。 …ダメ元で相談してみるか??
/19ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加