嫌悪

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嫌悪

「何してるんですか」 「あ?」  二〇一九年、冬の東京。吐き気を催す程多くの人間が行き交う繁華街。その中でも掃き溜めのような場所に、とあるサラリーマンがいた。  目の前では、酔っ払った大男が女性を困らせている場面が繰り広げられている。  何故声をかけたかは分からない。それまで、自分のことを正義感が強いと思ったこともなかったし、そこまでしゃんとした人間でもなかった。  後からそれが気紛れだったということに気付いたが、その頃にはもう、彼の人生は狂っていた。 「何あんた。なんか用?」  お手本のような突っかかり方に、サラリーマン時代の佐伯はおかしな安心感さえ覚えた。漫画でよくある展開だ。  余計なお節介を焼いたが最後、タコ殴りにされて惨めな思いをする。そんな舞台装置のような役回り。  しかしこの時は、結末さえ分かっていれば怖いものはないと思った。 「いや、何となく。お姉さん、困ってると思ったから」 「困ってねぇよ。なぁ? おら、分かったらどっか行け」 「あなたが離れるまで、動きません」 「……めんどくさ。じゃあどかすまでだよ、なぁ」  強烈な前蹴りが鳩尾にめり込む。臓器がふわっと持ち上がったような感覚と共に、佐伯はそのまま後ろへ倒れた。  何と情けない。自分から啖呵を切っておいてこのザマである。  言い寄られていた女性は、その隙を見て人混みの中へと消えていった。どういう思いでその場を後にしたのかは、今でも分からないことだ。「それでいい」という思いと同時に、「結構薄情なんだな」と勝手に裏切られもした。 「おい、お前のせいでどっか行っちまったじゃねぇか」  言いながらずかずかと無遠慮に近付いてきて、サッカーボールを蹴るかのように脚を上げ、それを振り下ろす。汚い革靴の先が、今度は内臓に穴を開けに来た。  嗚咽を漏らしながらも、頭はやけに冴えていた。  次に脚を振り上げてきたら、もう片方の軸足を払う。そうすれば、今度は自分が逃げる時間を稼げるはずだ。  そして佐伯は想定通りに身体を捻り、利き足を使いありったけ全力で軸足を蹴り飛ばした。 「うおっ」  それが男の最期の言葉だった。  彼はバランスを崩すと、どこかの店の勝手口へと上がる段差の角に頭を打ち、死んだ。  佐伯はすぐに、自分が殺したんだと悟った。幽霊でも見て驚いたかのように大きく見開かれた眼はぴくりとも動かず、一点を——佐伯の眼を見ている。  段差を伝って流れる血液は、やがて大きな血溜まりを作り出した。  げほげほと咳き込みながら何とか立ち上がった佐伯は、ただひたすら思考を回し続けた。それを止めたら自分も死ぬと思う程に。 ——これから俺はどうなる? バレずに逃げ切れるか? そもそも罪に問われるのか? 俺は……俺はどうすればいい?  ただのサラリーマンだった佐伯が出した答えは、とにかくこの場から逃げることだった。  汚い格好で走って走って、どれくらい経ったか。気付けば佐伯は、見知らぬシャッター商店街をとぼとぼと歩いていた。  薄暗く閑静なアーケードの中で、突然一際大きな音が鳴った。着信音のようだが、自分のスマホのものではない。だが間違いなく自分の身体のどこかから鳴っている。  ポケットというポケットを調べ尽くすと、見たことのないスマホが入っていた。「知らぬ間に盗みも働いていたのか」と絶望しかけたが、それ以上のことをしでかしていることに改めて気付くと、何でもないことのように思えた。  もはや失うものなど何もない。佐伯は投げやりに電話に出る。 「何の偶然か、ターゲットを始末してくれたようだな」  応答したのは、気色の悪い変声機の音。  最も思い出したくない過去。殺し屋、佐伯が生まれた瞬間だった。
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