仕事

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「九コール目だ。とうとう死んだかと思ったぞ」  変声機越しの声は嘲笑するでも侮辱するでもなく、真剣にそう言った。彼はそういう男ではない。常に冷淡で、冷酷な人間だ。恐らく、冗談とは無縁の人生を歩んできているはずである。  けれどそれも推測に過ぎない。何しろ、佐伯は自らのボスの本名すら知らないのだから。 「問題ありません」  十コール。それまでに電話に応答しなかったら死んだものとする。  彼らの間で幾重にも取り交わされたルールのうちの一つである。佐伯は今回、ほんの些細なミスを犯した。受話器が鳴らすコール一つ分遅れる程度の些細なミスだ。  使われなくなって久しい埠頭の倉庫内は曇天のおかげもあってか、まともにものを見ようとすると何かしらの明かりが欠かせない。足の踏み場すらも怪しい具合だ。そんな中、佐伯は仕事をこなしてみせた。 「対象は」 「既に処理してあります」 「よし。こちらで確認ができたら——客? 少し待たせておいてくれるか——確認が済んだら追って連絡する」 「分かりました」 「では——な」  妙に歯切れの悪い電話の切れ方をした。おおかた、さっき言っていた“客”とやらが怒鳴り込んで入ってきたのだろう。これまで、一度や二度で済んでいる話ではない。佐伯は適当に理由を付けて、自分を納得させた。  スマートフォンのライトをつけ、最終確認を行う。万が一にも証拠になるようなものが落ちていようものなら、彼は即廃業となるだろう。厳密には廃業ではなく逮捕されるのだが、そうなった場合、どの道もう今のボスから仕事は受けられない。  どれだけ長く下で働いていようと、自分は蜥蜴の尻尾に過ぎないことは忘れてはならない。それを思うとやや報われないとも感じるが、そもそも佐伯は自分の為の仕事はしない。報われたいが為に働くのならば、もう少し職を選んだ方がよかった。それでも彼は後悔などしていない。  自分が活動した場所を徹底的に調べ上げ、いよいよ証拠になり得るものはないと判ずる。佐伯は倉庫を後にすべく、元は従業員用の出入り口だったであろう扉まで歩いた。  その一歩手前で、佐伯は月光に差された。直接ではなく、出入り口の脇に掛けられていた鏡からの反射だ。雲の切れ間から月が顔を覗かせていたのを、鏡が捉えたものだった。  砂や土埃で汚れた自らの姿を鏡越しに確認する。酷い有り様だ。夜に紛れる為の黒い作業着はところどころ白くなっており、地が黒いので余計に目立つ。  しかしここでそれを払っては、繊維か何かが飛んで残ってしまうかもしれない。佐伯は自分の身なりに見て見ぬふりをし、静かにその場を去った。  倉庫を出た佐伯は、ふぅっと一息吐いた。ここで煙草の一本でも吸えれば様になるのだろうが、彼は煙草も酒も嗜まない。  ターゲットは、頻繁に家庭内で暴れる——いわゆるドメスティック・バイオレンス男だ。死体は電話がかかってくる直前に業者が回収していった。道具は周りを汚さないよう、麻で編まれたロープ一本のみ。死因は頸椎骨折。へし折る前に窒息で気を失っていたはずなので、余計な痛みは少なく済んだだろう。業者のバンに載せるのに少し手間取っただけで、それ以外は全て彼のシナリオ通りだ。  だが彼は、レオン・モンタナでもなければジョン・ウィックでもない。守りたい人がいるわけでもなければ、人智を逸脱した身体能力があるわけでもない。一介の殺し屋である。  佐伯は自分の車に乗り込み、午前五時の街を疾走する。  殺し屋の車といえば大層なものを想像するだろうが、佐伯の愛車はハイブリッドの軽自動車だ。煙草のことも然り、自分でもいまいち格好がつかないことは重々承知している。  家も普通のマンションの一室。郊外に豪邸を持っている、なんてことはない。そこには彼なりの理由が存在する。まず第一に、目立たないこと。これが最も重要だ。  日常に殺し屋が潜んでいると考えると周囲で暮らす住民たちには申し訳が立たないが、木を隠すなら森の中なのだ。  第二に、彼にはほとんど物欲がない。車は快適に移動できればそれで良し。住んでいるマンションの一室もほとんど家財はなく、一見するとただの空き部屋のようである。  代わりに食欲は人よりもやや旺盛で、常に何か口にしていないと落ち着かない。かといって太ってはおらず、中肉中背な優男といった風体だ。  そんな佐伯が生きる理由は一つ。この世から悪を一人でも多く消すこと。自らの手を汚している以上、これが高潔な目的であるとは微塵も思っていない。いわば、必要悪なのだ。  だからこそ彼は私欲の為に人を殺めることはしない。殺すのは、ボスからの依頼が自分の尺度で「正しい」と判断できた時のみ。これも彼らのうちで交わされたルールの一つだ。  家に着くと、朝方の静寂が佐伯を出迎えた。外は数時間前までの曇天もどこかへ流れ、朝日が差し込もうとしている。  佐伯はカーテンを開けることもせず脱衣所に直行し、汚れた作業着を洗濯機の中へ投げ込んだ。そしてシャワーを浴びる。  当然、いつでも電話に出られるようにしてある。数年前までは、気密性を保てるジッパー付きのビニールにスマホを入れるか、スマホそのものを防水のものにしたこともあったが、今は便利になった。腕時計型のウェアラブル端末の台頭によって、まさしくスマートに全てを解決できたのだ。  ちなみに、十コールを過ぎると何が起こるかは、佐伯自身も分かってはいない。 ——何が起こるんだろうか。  そんな今更過ぎる疑問を浮かべながら身体を洗っていると、ちょうど着信が入った。左腕を胸の高さまで持ち上げて確認する。  この電話は十コール以内に出る必要のないものだったが、念の為応答する。殺し屋といえど、横の繋がりは存在する。 「面倒ごとか?」 「あら、声が響いてる。入浴中?」 「いらない詮索はいいから。その様子だと、急ぎの要件じゃないみたいだな」 「全然。でも仕事の話よ」 「と言うと」 「あれ。興味ない感じ?」 「そうでもない。内容次第だよ。かけ直す」 「ううん、会って話したいの。いつもの場所で待ってる」  直後、電話は向こうから切られた。昔からそうだ。薫は付き合うにはマイペースが過ぎた。それでも三年は続いただろうか。  佐伯は溜め息を一つ吐き出し、再び傷だらけの身体と向き合った。
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