仕事

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 午前五時。佐伯は、薫の住むマンションの目の前に車をつけ、さくらんぼ味の棒付きの飴玉を舐めながら彼女が降りてくるのを待っていた。ラジオの交通情報によれば、今のところ渋滞はなさそうだ。  到着から数分も経たず、薫が豪奢なエントランスから出てくる。  キャメルカラーのもこもこした起毛のアウターに白いトレーナー、淡い青のジーンズ。荷物は愛用しているブランドのバッグと、黒い革張りのキャリーケースという出で立ち。人の中に隠れるにはもってこいの格好だ。 「昨日の、ご馳走様」  車窓を下ろし、挨拶の意味も含めて右手を上げる。 「わざわざいいのに」 「礼は礼だよ」 「どうも。後ろ、鍵開いてる?」 「トランクじゃない。勝手に開けてくれ」  最近の軽自動車は小さい割に中が広い。佐伯の愛車も多分に漏れず、キャリーケースの一つや二つはなんてことない。  ばん、と控えめにドアが閉められると、今度はすぐに助手席側のドアが開いた。 「もっと良い車乗ればいいのに。トランクがあるような」  薫は運転席と助手席の間に置かれた、放射状に広がる棒付き飴のスタンドを見ながら言った。 「俺からすれば、これで充分良い車だ」  杉並を出発して中央自動車道に乗り、車を走らせること二時間と少し。空はまだ完全に朝焼けを迎えておらず、ややもすると薄暗い。 「着くの早過ぎた?」 「遅れるよりはいい」  佐伯は車を近くの駐車スペースに停め、煙草の代わりに三本目の飴を口に入れた。 「よし、段取りを確認しよう。ラップトップを」  薫は後部座席のバッグからラップトップを取り出し、昨日の朝と同じ画面をつける。今目につく明かりはこのディスプレイと、駐車スペースの看板だけだ。 「ターゲットは二人。警察官僚の亀井と、そのお付き、高橋ね。まずは分かれて監視して、取り巻きの人数や行動パターンをその場で確かめる。それが終わったら交代してもう一セット。事前の情報もあるから、二時間もあればいいでしょう。まずはどっちにつきたい?」 「亀井で」 「じゃあ私はより危険な高橋を監視するってことね」 「ところで薫。キャリーケース積んでたけど何を持ってきたんだ」 「ほとんど着替えよ」 「ほとんど、ね。どうせ銃も入ってるんだろ」 「サプレッサーついてるから大丈夫」 「じゃあ危険な方で問題ないな。でも頼むから撃たないでくれよ。血を見るのは好きじゃない」 「ほんと、なんで佐伯くんがこんな仕事してるのか不思議よね」  自分でも不思議に思う。以前は真っ当に社会人をしていたはずだ。 ——あんなことさえなければ……。 「まぁそれはそれとして。監視が終わったら合流して情報共有。あとはタイミングを見計らって順番に仕留める」 「今回も随分ざっくりだな」 「完璧な作戦は行き当たりばったりに劣るのよ。仕留められればそれでいいんだから」  彼女が言わんとすることは分からなくもない。全てが状況次第で左右される中、どれだけ綿密な計画を練ったところで、その通りにことが運ぶ方が珍しい。であれば、初めから柔軟な対応ができるように心構えをしておくべきである。  目的さえ達成できれば過程は問題ない。薫との仕事は常にスタンドプレーから生まれるチームワークの連続だ。  つまり、全てを薫に任せるつもりもない。佐伯もまた、彼なりの準備をして来ている。彼の今回の道具は、ある植物の種子だ。 「佐伯くんは何を持って来たの?」 「トウゴマの種」 「トウゴマって確か、毒だよね?」 「結果さえ良ければいいんだろう。しかも、最良の結果を得られる」  トウゴマの種子には、リシンと呼ばれる有毒なタンパク質が含まれている。症状は風邪に似たもので、発熱や咳に始まり、最終的には呼吸不全に陥って死に至る。  欠点は、曝露から発症まで最短でも四時間、死亡までは最長で丸一日かかるという点。即効性には欠ける。静かに殺したいだけなら薫のサプレッサー付きの銃で十分だ。  だがその欠点も、裏を返せば長所になる。症状が出始めるのが遅いが故に、毒が回っていることに気付かれにくいのだ。実績もある。 「まぁ、どうやって使うのかは任せるわ」 「同業がいる可能性は?」 「あり得るでしょうね。佐伯くんのところにまで話がいってることを考えるに」 「そうなると、獲物の取り合いか。面倒なことにならなければいいけど」 「そうだ。コードネームでも決めておく?」 「いらない。そもそもお互いにコードネームみたいなものだろう。この世界、本名を使ってるやつなんていないよ」
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