不測

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不測

 数人の視線の先にあったのは、夥しい量の血溜まりに浮かぶ男の姿だった。  遠目からしか見えないが、血液は上半身から流れ出ているようで、カーペットにどす黒いシミを作っている。その血液の量からして、それは間違いなく既に亡骸だった。  黒服たちが慌てふためいて駆け回っていたのも納得である。ホテル側は何とかこの事態を、例え一時凌ぎでも収束させようと奔走していたのだ。  現場となった三階の廊下突き当たりでは、責任者であろう数名を除き、誰もがその死体に近寄ろうとはせず、しかし辛うじて見える距離を保って群れている。この場にいるのは恐らくスタッフだけだ。  二十人そこそこしか泊まれないホテルだからこそこれだけのざわつきで収まっているが、もっと規模の大きなホテルであれば、この時点で既に阿鼻叫喚だろう。  職業上、すぐ側まで行ってきちんと確かめたい佐伯ではあったが、かといってここで警察や探偵を名乗り出られるほどの胆力はなく、その群れの中に混ざりながら数メートル先を観察していた。  背格好は一般的な成人男性ほどの背丈でやや肥満気味。服装は至って分かりやすく、カジュアルでごく普通の観光客といった装いをしている。  争った形跡の有無、どこが致命傷なのか、更には死因までは、この距離からでは判別がつかない。恐らく、何かしらの凶器があることは間違いないだろう。素手でここまでの血液が流れる程の怪我は、そうそう負わせられないはずだ。  凶器。佐伯の脳裏を、嫌な予感が過ぎる。  銃弾であれば、あの規模の血痕を残せる血は望まなくとも流れるものだ。そして彼は、この建物内で一人、確実に銃を持っている人物を知っていた。  あくまで可能性の話、もし彼女が犯人だったとして。何故、どうして一般人を殺す必要があるのか。亀井はどうしたのか。佐伯は内心酷く動揺しながら、再び薫に電話をかける。  やはり出ない。  取り決めたわけではないが、十コール目を過ぎた時点で、佐伯は呼び出しを止めた。  佐伯の中で、大きく純粋な不安感と、忌避すべき僅かな猜疑心がふっと芽吹き、黒くくすんだ花を咲かせた。  まもなく、近くの駐在所から派遣されたであろう制服警官が二人やってきて、死体の近くにいた男たちと話をし始めた。  こうなってしまっては、もはや手出しはできない。あの亡くなった男の詳細は、後から嫌でも耳に入るだろう。多少の尾鰭背鰭は付いているかもしれないが、ないよりはマシである。そう判断し、佐伯は泣く泣く階下へと降りた。  亀井の行方も気になるところだが、何より薫の無事が気がかりでならなかった。  フロントがある一階まで降りてくると、下はそれまでと変わらず、まだ平穏な空気が漂っていた。ホテル側はこの事態に対してどう動くのだろうか。それによっては、佐伯の行動には更に制限がかかることになる。  できることなら、事態が肥大化する前にことを片付けたいところだ。  事件のことを調べるとなると、自然と白波が立つ。だが静かな水面に白波が立てば、それだけ目立ってしまう。二律背反に佐伯は苦悩した。  ここで突然、腹の虫が鳴った。朝から何も食べていなかったことを思い出すと急激な空腹に襲われたが、今はそれどころではない。佐伯は多少の苛立ちを覚えながら、ポケットに一本だけ忍ばせていた棒付き飴の封を開けた。  亀井を一行から分断する為に潜入してから随分な時間が経っている。ホテル内を行き交う客足も先程より遥かに少ない。それが果たして時間によるものなのか、早速事件のことが出回っているからなのかは、彼の知るところではない。  ここで佐伯はあることを思い出した。薫の行方と上階の事件に気を取られていたばかりに、高橋の監視を失念していたのだ。仕事人として失格である。  今度はごく普通の利用客を装ってレストランへと戻る。  時刻は二十時を回ろうかという頃。個室エリアに顔を覗かせると、見事に全ての部屋が空いていた。  三階の事件に気を取られているうちに出払ってしまったらしい。彼は小さく舌打ちをした。  ロビーの一人がけソファの上。佐伯は棒の先の飴をばりばりと噛み砕きながら、この一時間程で起きた事件を整理していた。  まず薫の安否。薫と最後にやり取りができたのは、佐伯がレストランに潜入する前。以降、こちらからかけても応答はなく、当然、かかってくることもない。  これが日常での話ならば取り立てて気にすることでもないが、タイミングが悪過ぎるが故に、佐伯の心に翳を差すには充分なできごとであった。  次に挙がるのは、宿泊棟三階の殺人事件。しかしこれについて現状で分かっていることはあまりにも少ない。かといって今後も詳らかになる可能性も低いだろう。  そして亀井、高橋の行方を見失ってしまったこと。これはひとえに自分のミスだと、彼は頭を抱えた。一応手は打ってあるが、先の事件の混乱に乗じて逃げられていてもおかしくはない。  更に厄介なのが、これらが全て繋がっていないとも限らないという点だった。  薫、亀井、高橋はどこへ消えたのか。あの男は誰なのか、何故殺されたのか、誰が殺したのか。疑問は枚挙に暇がない。  この中で優先順位をつけるのであれば、まず亀井と高橋の行方を知ることが第一だろう。私情を挟むのであれば薫を探したいところだが、仕事中であることを忘れてはならない。    佐伯はちらちらと雪の降る外へ出ていた。風は吹いているが、刺すような凍える風ではなく、少し冷えるくらいの心地よい夜風だ。  雪は若干足跡が残るくらいの降り方で、大雪という程でもない。  彼はある車の前を離れた位置から確認する。黒いワンボックス、「や 28-89」。亀井たちが乗ってきて、その後すぐ佐伯がダメにした車だ。  あの車へと向かっている足跡は存在しない。三階の事件が起きた後逃げられたかとも思ったが、どうやら試みてもいないようだ。  もっとも、逃げようとしてもあのタイヤでは満足に走ることはできないはずだが。  歩みを止めず、確認しながら車の前を通り過ぎてゆく。「誰かがここへ確認をしにきた」とバレないよう、佐伯はそのまま自分の車へ向かい、飴玉を補充してからホテルへと戻った。  その途中、ふと頭をよぎるものがあった。 ——三階の事件現場はどうなったんだ……?  それによく、「犯人は現場に戻る」とも言われている。  殺し屋の世界では——少なくとも佐伯は、犯行現場に戻ることは絶対にしない。それは突発的なものではなく、丹念に練られた計画があるからこそだ。  だが今回の殺しはほぼ確実に突発的、或いは偶発的な事件である。ならば犯人は、証拠になり得るものがないかどうか確かめに来るのではないだろうか。  犯人が誰であっても、そこに何かしらの情報があるかもしれない。  当たる価値は大いにあった。
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