不測

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 佐伯は再び三階を訪れた。  外に出た時から思っていたことではあったが、まだ警察は到着していないようだ。今まさに向かっている最中なのだろうが、これは佐伯にとって非常に好都合である。  現場はブルーシートではなく、シーツで覆われていた。何ともホテルらしい対応だ。その目隠しの手前には、先程現れた制服警官が二人立っている。  遺体があったのは廊下の突き当たりだった為、入ることを阻害されている部屋はない。  それ以外に何もないのが、やけに恐ろしく感じた。  ホテル内で殺人が起きたのなら、客を全員出して安全を確保するくらいしてもいい筈だが、ここにはそれがない。  これもまた佐伯にとっては好都合なのだが、ここまで来ると何某かの意図が働いているのではないかと勘繰ってしまう。  そうはいっても、流石に遺体を直接見ることはできなさそうだ。あの警官たちに訊いたところで、「関係者以外立ち入り禁止」の一点張りだろう。  佐伯は遺体とは反対方向へと進みながら、この建物の見取り図を頭に浮かべた。  逃げるとしたらどこだろうか。  堂々と逃げるのであれば廊下の中央にある吹き抜けの階段。隠れて逃げるのであれば非常階段といったところか。だが非常階段はあの遺体の奥にもあるから、使われたのならそちらだろう。  或いはリネン庫。リネン庫にも各階を移動できるエレベーターが設置されている。ここも充分逃走経路になり得る。  気付けば、そのリネン庫の前に彼は立っていた。  何度も越えてきた「STAFF ONLY」の扉を開ける。やはり、どこを開けても中は暗い。スマホを取り出し、ライトを点ける。棚いっぱいに積まれたシーツの山は、ただの布だと分かっていてもそれなりに迫力があった。圧迫感も凄まじい。  今いるのは三階だがここには特筆すべきものは何もない。奥へ進むと、突き当たり左には、見取り図通りエレベーターがあった。ドアの上には、他に四階、二階、一階とある。ひとまず上へ行くボタンを押し、カゴが到着するまで待った。  程なくして四階に上がり、一歩足を踏み入れた瞬間、異変を感じた。匂いが違う。それまで鼻をつんと刺す漂白剤の匂いだったのが、急激に酸っぱく、生臭くなった。  間違いなく、血の匂いだった。  直後、佐伯のスイッチが切り替わった。左側の尻ポケットに挿してある仕事用の革手袋をはめる。  もしここに誰かがいるのならば、その人物は良くても手負い。だとすれば、例の男を襲った際に反撃を受け負傷していると考えられる。これだけ布があれば止血にも困らないだろう。  そして相手は「誰かがここへ上がってきた」ことを察知しているはずだ。  生きていれば、の話だが。  臨戦態勢を取り、音を殺して滑るように中へと入る。ちょうど壁に沿って置いてあるシーツの棚が死角になり、そこに身を隠す。部屋は真っ暗だ。こちら側から一方的に強い光を当てれば、相手を怯ませられると同時に、こちらの姿も見えない。  ふっと息を整え、身を翻した。 「動くな」  ライトの光線の先にいたのは、血みどろになって床に伏す薫だった。 「おい薫、薫っ……!」  上体を起こしても、肩を揺すっても薫は起きない。恐る恐る頸部に指を当てて脈を取ったが、彼女は既に事切れていた。 「嘘だろ……」  これまで幾度となく人の死を見て、そして自らの手で殺めてきた佐伯の人生の中でも、彼女の死は二番目に衝撃的なできごとだった。一番は——思い出したくないものだ。  何とか持ち直せと、佐伯は自分に言い聞かせる。まず何をすべきか。  この遺体の有り様からして、他殺であることはまず間違いない。死因は、こめかみと左胸に証拠として残っていた。丸く開いた傷口。弾痕である。即死だっただろう。  薫は二発撃たれている。頭部と胸部、確実に殺すという強い意志の表れだ。一般人には到底成し得ない芸当。薫を殺した人物は、何の躊躇いもなく人を殺せる精神の持ち主——いわば同業者か、それに近しい者だろう。  ましてや、薫はプロだ。ただの一般人相手に遅れを取るはずもない。  妙に冷静な自分に嫌気が差してくるが、何とかそれを振り払って続ける。  銃といえば、薫はベレッタを持っていた筈だ。しかし薫の着ているフロントの制服の内ポケットにも、腰にも差さっていない。 ——盗まれたのか……?  もしそうだと仮定するなら、次のシナリオが考えられる。 「薫は同業者と遭遇し銃で応戦したが、それを奪われ反撃を喰らってしまった」。  そうでないのなら、銃を持った人間が他にもいるということになる。  ではその相手とは誰か。具体的に絞れるのは亀井、高橋、そして階下で死んでいた男の三名になるだろうか。そうなると、最後の謎の男の正体が非常に気になる。  彼は一体何者だったのだろうか。佐伯は首を擡げた。  いずれにせよ、薫を殺した人物を佐伯は許すことなどできなかった。佐伯も人間だ。親しい人間を殺されて、いつまでも平静な心を保ってはいられない。  ゆらゆらと湧き上がる、怒りとも悲しみともつかない、殺されても致し方ないとさえ思う、ないまぜな感情。  確かに薫は正義ではなかった。彼自身もそうだ。殺しを生業としている時点で、人の道を外れている。それを棚に上げて「大義名分だ」と復讐を振りかざす程、佐伯も愚かではない。  だが殺しには、それに値するだけの正当な理由が必要だ。故にこそ、佐伯はこの事件の真相を突き止め、薫を弔ってやる必要があった。  その犯人を殺すかどうかは、また別の話である。  それこそが佐伯の在り方であり、彼を偽善の殺し屋たらしめている心の在り方なのだ。  だが今の佐伯には、薫の遺体をどうすることもできない。  本来ならスタッフ以外立ち入り禁止のリネン庫に勝手に忍び込んでいるし、「遺体を見つけた」と言おうものなら、第一発見者として長い時間拘束されることになる。後々、良くて重要参考人にもなるだろう。  かといって、誰の目にも映らず、人一人を抱えて車まで運ぶことも現実的ではない。  どうにかしてやりたいと思えば思うほど、それが限りなく不可能に近いという事実を突き付けられた。 「すまない、薫……」  佐伯は断腸の思いで薫に背を向けた。
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