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わたしが教室に入るのとほぼ同時に、後ろからバタバタと桜子が駆け込んできた。
「あ、美織。おっはよ~」
「おはよ、桜子」
この子は江見パトリシア桜子。イギリス人の母親を持つ帰国子女。1年のときから同じクラスで、学園で一番の仲よし。
「んも~、6月になったばっかなのに、あっつぅ~い」
「朝練だったからでしょ」
桜子は中等部チアリーディング部の副部長。生まれつき色白で、運動するとすぐ顔が赤くなる。暑がりな割に、制服はいつもスラックスを愛用しているけど。
どさりとリュックを席に下ろし、持っていたお気に入りのピンクのハンディファンを顔に近づけて、桜子は余った手でもパタパタと顔をあおいだ。
「アハハ、江見ちゃん、ゆでダコみたいな顔じゃん」
大声で豪快に笑い飛ばすのは、津田紗耶香。前髪ぱっつんのざっくりボブカットは、おばあちゃんの家で見た市松人形みたいなの。
「や~だ、津田ちゃ~ん。せめてゆでタマゴにして~っ」
「ツッコむポイントそこかよ!」
恰幅のいい津田ちゃんは、男子にも女子にもはっきりとものを言う。のんびりおっとり系の桜子との掛け合いは周囲の笑いを誘うから、密かにうちのクラスの名物になってる。
本鈴が鳴ってほどなくすると、担任の先生がやってきた。
放送朝礼を聞きながら窓のほうへ目を向けると、港区の町並みに、初夏の明るい陽射しが差し込んでいた。
その日の2時間目は、保健体育。
といっても、保体の授業っていつもちょっと退屈。数学みたいに式を解くわけじゃないし、現代文みたいに文章を読み進めるのとも違う。基本的には教科書に沿った話を先生から聞いているだけだし。この時間、居眠りしてる子も多いくらい。
そう思ってたけど。
「保健編の3章を開いてください。74ページです。がんの予防について」
はっと意識が教科書に向いた。
先生が要点を黒板に書きだして説明する。
「がんという病気をみなさん聞いたことがありますね。先日も芸能人の方ががんを公表したというニュースもありました。がんは大変身近な病気のひとつです。高齢になるほどがんにかかりやすくなりますが、自覚症状が出るまでに長い年月がかかります」
教科書には「がんは日本人の死因上位で、一生のうちに2人にひとりががんになる」って書いてある。2人にひとり――じゃあ30人のこのクラスで言うと、15人はがんになるかもってこと?
「75ページのグラフを見てください。がんの原因は、男性の場合は喫煙、女性の場合は感染がトップです」
グラフによるとそれ以外の原因もいろいろある。受動喫煙、飲酒、過体重・肥満、塩分摂取――えっ、しょっぱい食べ物もがんの原因になるの?
がんは放置すると転移する、自覚症状が出るまでには長い年月がかかる、悪化を防ぐにはなるべく早く見つけることが大切なんだって。
今朝の父さんの話を思い出した。
(どうやら、本人の希望で周りには伏せていたらしいんだが、がんが見つかったのは去年だったらしい)
がんが見つかってから、たった半年か1年くらいで――死んじゃうこともあるんだ……。
授業の終わりに先生は言った。
「今週の土曜は以前お伝えしたように、外部の講師を招いたがん教育の特別授業があります。あとで感想レポートを書いてもらいますから、しっかり聞いてくださいね」
途端に教室のあちこちでため息が漏れた。
自由記述の感想レポートか……。さすがにちょっと気が重くなるなあ。
放課後、わたしは7階にある英語部の部室へ向かった。
すでに部員が何人か来ていたけど、高見くんはまだみたい。わたしはいくつか島型に並んだ共同デスクの一席を確保。部室の本棚からマザー・グースの洋書を持ってくると、ノートとペンケースをリュックから出す。
英語部の部室は中高共同。中等部が20人、高等部も18人いるみたいけど、そんな数が集まることは秋の学園祭の前くらい。運動部ほど厳しくもないし、アットホームな雰囲気でサボる子も多いし、はっきり言って幽霊部員も何人かいる。
だから、月曜と木曜の活動日に集まるのは大体決まった顔ぶれだけど――。
「お疲れさまです。……あ、長瀬先輩」
「高見くん」
ドアが開いて、やってきたのは高見くんだった。わたしの隣の席に座って、リュックを下ろした。
そう。わたしはサボったりしない。だって、高見くんと会える貴重な時間だしね。学年が違うと、こんなふうに高見くんと教室で隣に座れることもないんだもん。
「そうそう、わたしも動画投稿サイト見てたら、海外ドラマの英会話チャンネル見つけたの」
「あ! おれも見ました」
英語部の活動は、それぞれ自分が興味のあるものを研究する。洋書の翻訳を読み比べたりする子、映画やドラマの英語をヒアリングする子、みんなさまざま。学園祭のときは研究テーマを決めて、英語の朗読劇をやったりするの。年に何回かは、ネイティブスピーカーの外部講師を招いて英会話チャットをすることもある。
「慎重にホームズ見てると、結構イギリスの英語って特徴がありますよ」
「アメリカの英語とだいぶ違うよね」
「はい。でもホームズのドラマで、アイリーンがイレーネって発音されてたんです」
「イレーネ?」
アイリーン・アドラーって、たしかシャーロック・ホームズの代表的なエピソードのひとつ『ボヘミアの醜聞』に出てきた。ホームズが認めて敬意を払っている、唯一の女性のことだよね。
「てっきりイギリス英語なのかと思って調べまくったら、ドイツ語の発音らしいんです。ボヘミア王国は今のチェコ共和国のことで、ドイツ語が使われてたって」
「そうなんだ!」
「想定外の知識を得た、って感じです」
高見くんはそう言っておかしそうに笑う。ほんとにホームズが好きなんだな。
わたしが1年のとき英語部に入部したのは、できるだけ英語の苦手意識をなくしたいからだった。自分の好きなことをこうして話せる部活の時間が、わたしはすごく好き。
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