おわりのはじまり

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おわりのはじまり

2月3日  散歩に出掛けた先で、人間を見つけた。  小さくて、可愛くて、僕を見上げてふるふると震えていた。ボロボロでみすぼらしくて、助けてあげないと、と直感で思った。  この子が逃げなかったのは、怪我をしていたのかと思っていた。けど、どこにも怪我はなくて、もしかすると僕なら信じても良いと、感じてくれたのかなと思う。  人間は小さくて、可愛くて、柔くて脆かった。  お風呂に入れてやると、肌がすぐに真っ赤になってぐったりしてしまった。身体を拭いてあげようとして、真っ赤な亀裂が入ることもあった。それでもその子は、僕を信頼してくれていたのか大人しかった。お風呂場では逃げ惑っていたから、人間は水が苦手なんだと思う。  ご飯は、初めは食べ物だとわからなかったのか口にしてはくれなかった。口元に教えててやると、味が分かったのかゆっくり食べてくれた。僕の顔を見ながら、小さい口で少しずつ。可愛かった。 ・・・ 3月4日  見ず知らずの人間からすれば、巨大生物な僕だから、抵抗されても仕方がないことはわかっていた。きゃーきゃーと鳴き声をあげる彼女に、心を鬼にしながらも僕は丁寧にお世話をする。  それでも、家の外へ出る素振りはなかったし、少しは僕の思いが伝わっていた気がする。  この子はご飯もあまり好きじゃなかったかもしれない。それでもちょっとずつ食べてくれたし、僕が出かけるときには一緒に着いてこようとしたりもした。懐かれてるのかな、と感じてしまう。  ケージを用意すると、彼女は必死に脱走を試みたりもした。  僕の姿が見えなくなったときにしかしないから、たぶんさみしがりなんだと思う。だから僕は、こまめにケージへと声をかける。ちゃんとここに居るよ、安心してね。君をいつも見ているよ、って声をかけると、安心したのか黙ってケージの奥へと戻った。物影からじっと、僕を見た。本当に可愛い人間だ。 ・・・  本当に、大好きな人間だった。  日記を見返せば、その頃の彼女の様子が脳裏によみがえる。きゃーきゃーという鳴き声も、涙を流す声もよく覚えている。さみしがりで、僕のことをいつも見つめていた人間。名前をつける間もなく、帰ってしまったけれど。  この世界にいつの間にかやってくる人間は、いつの間にかいなくなってしまうらしい。この世界とは別の世界で暮らしている生き物だから、そういうものらしいと友だちが言っていた。人間について研究している友人はよく、彼女を見に家に来てくれた。何を食べるのかとか、どういうお世話をするべきなのかとかは、全部彼に教えてもらった。  そうそう、人間の鳴き声には、意味を持つ「言葉」というものがあるらしい。僕の聞いたきゃーとかは、その類いではなかったらしいけれど。 「そりゃあ、同じ言葉を使ってない俺たち相手に、言葉を話しても意味がないと考えていたんだろう。人間は賢いから」 「そっかぁ……。いつかまた会えたら、あの子と言葉で話してみたいなぁ。そのときには、名前をつけて、おうちに帰ろうって、言ってあげたい」 「はは、いいじゃねぇか。だからあのケージも残してるんだろ?」 「うん、いつかまた、会える気がして」  そのときはまた調べさせてくれ、と彼は笑って、僕を励ましてくれた。  人間の世界であの子は、どんな暮らしをしているんだろう。家族を作ったり、友だちと過ごしたりしているといいな。あの子はさみしがりだから、一人であの日みたいに、小さく震えていなければ良い。  でも、もし、そんな思いをしているなら。そのときは君の帰る場所はここにあるよって、教えてあげたい。君のためのケージも、ご飯も、ここに用意して待っているから。  ……。  こんな調子だから、僕はどうしても、あの子がいなくなってからいつもの元気がでなかった。どうにも、何もかも、うまくいかない日が続いた。  そんな僕を見かねて、例の彼がこんなものをくれた。大好きなあの子の、コピーだ。 「まだ調整中でな。けど、模したぬいぐるみ程度じゃおもしろくないだろ?」 「すごい、すごい!あの子そっくりだ!どうしたのこれ!?」 「お前に見せてもらってた人間を元に作ったんだ。よくできているだろ?ちゃんと言葉も教えてるし、これから学習もするから、折角だし勉強にでも使えよ」  そう言って彼は、人間の言葉が載った本も一緒に僕にくれた。  僕はとびきり素敵なペットと、素敵な親友を持っていたらしい。彼にお礼を言いながら、僕は早速彼女をケージへと入れる。人形のようなぎこちなさで、あの子はケージの中を見回している。あの子の性格そのままとはいかないようで、しばらくしてから彼女はケージ越しに静かに僕を見つめてくれた。 「ぷれじゃー。僕の名前だよ。言えるかな、ぷれじゃー」  ゆっくりと、彼女に僕の名前を呼んでもらおうと根気強く声をかける。  彼女の声は完全に同じとはいかなくて、なんだかがさがさして聞こえた。それでも、別に構わない。彼が僕のために作ってくれた、大事な彼女のコピーなのだから。  彼女の中で意味を持たなくても、人間は音で名前と認識することができるらしい。発音が正しくなくても、この子が僕の名前を呼べるようになってくれたら。寂しいときに、呼んでくれればいつでも駆けつけるよって、教えてあげるために。何度も、何度も教え続けた。 「ぷ、れ……じゃー」  数日かけてようやく、彼女が僕の名前を呼んでくれた。  それまでは全く違う発音をするものだから、人間は存外耳が悪いのかとガッカリしたのも事実。けれど、ようやくだ。ようやく彼女が僕の名前を覚えてくれた。嬉しくて声をあげたくなったけれど、驚かせるわけにもいかないのでそれは我慢する。  何度も練習するように、彼女が僕の名前を繰り返す。それが嬉しくて僕はじっと聞き続けた。僕の名前に混じって、何度か違う発音も聞こえたけど、耳が悪いみたいだから仕方ない。そのたびに違うよーと教えても、彼女は僕をじっと見つめるばかりだった。 「ひょっとして、自分の名前を教えようとしてくれてるのかな?」  そう思って耳を澄ませてみる。でも、僕の名前の後に続ける言葉は、いくらかパターンがあったけれどバラバラで、名前にしては不自然だった。  名前ではないけれど、パターンがある?何か意味を成す言葉なんじゃないか。そう思って、今度はもらった本を開いて確かめてみる。 「ええと……か、える?」  かえる、かえりたい、かえらせて。  似たような言葉でそんなこと言っていた。ああ、この子はずっと帰りたかったのか。  僕の元に。  ……僕の元に? 「僕はここに居るよ?帰って来れたんだよー」  優しく、優しく声をかけると彼女は頭をゆるゆると横に振った。何の仕草だろう?他のたどたどしい言葉も、本をめくって探してみる。 「帰りたい、ぷれじゃー、帰らせて」  ……そもそも。  このコピーに人間の言葉を話させる技術があったとして、どうしてこの言葉ばかり言うんだろう。彼が作ったときに選んだ言葉なら、僕を励ましてくれるような言葉でいいじゃないか。それこそ「ただいま」とかさ。  これじゃあまるで、あの子みたいだ。  ……そもそも。どうやってこの子を作ったんだろう。  どうしてこんなにも小さくて、可愛くて、柔くて脆いところまで、本当にそっくりなんだろう。ケージから彼女を出して、服を脱がせて背中を見てみる。ああ、洗ってあげるときに脱がせるのを嫌がるところもそっくりだ。なんで彼が知ってるんだろう。  答えはそこにあった。  僕が力加減を誤って、うっかり作ってしまった、真っ赤な亀裂の痕。 「帰らせて、帰る、帰りたい」  僕は、気づきたくない可能性に気がついて、どうしようもなく手が震えてしまった。 「たすけて」
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