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真介は切り出す。
「手記に記されている、妹と弓嶋がタクシーでこのペンションに向かう場面。運転手の話によれば、去年の一月にここを訪れた男女の二人組の宿泊客がここの従業員と揉め事を起こしたそうですが、間違いありませんか? 」
柳沢オーナーは黙って俯いた。マスクで覆われた表情はさらに伺えなくなかったが、真介は話を続ける。
「魁はその従業員を、性格の荒い岳飛ではないかと考えていたようですが、それは違うでしょう。卯月の話によれば、彼は事件のあった年の四月からここで働き始めたそうじゃないですか。一月に揉め事なんて起こせるはずがない。冬休みの期間中だったようなので、卯月もここにいたかと思いますが、手記での彼女の性格を鑑みるに、客と揉め事を起こすことはないでしょう。オーナー、あなたも然り。では、この従業員とは一体何者だったのか? 私はその従業員の素性を調べました」
まず真介は手記に記述されていた魁と真理花を乗せたタクシー運転手、原田氏を探し出し、そこから氏を通してタクシー会社の記録から去年の一月に会社へスケープゴートへの送迎を依頼したカップルの男の方の住所と電話番号を得て、連絡を入れたのだった。その男はスケープゴートでの一件以来、恋人との折り合いが悪くなり、それからひと月もしない内に破局してしまったらしい。
「その男性が言うには「ペンションでインターネットを使いたいから、ここにあるWi-Fiのパスワードを教えてほしい」と従業員に頼んだものの、その従業員は「俺が引いた回線を他人に使われたくはない。使わせない」と怒り出したそうです。オーナー、あなたが自分の息子だと紹介したその従業員は」
柳沢オーナーは肩を落とし、そして長い溜息を吐いた。まるで、身体中の毒気を全て吐き出すかのように。
手記には、ペンションには六人の宿泊客と三人の従業員がいたと記されていたが、筆者の魁が見落としていた十人目が存在していたのだ。篠原が手洗いを出た際に見かけた不審者の正体も、宿泊客の眼をはばかって潜んでいたその息子だったのだろう。
「当時、電話が壊れてしまったそうですが、それでもこのペンションは完全に孤立してしまっていた訳ではなかった。通信手段としてWi-Fiの回線がまだ残っていた訳ですからね。……私が思うに、弓嶋が真理花の死体を発見する直前に聞いた、あなたの言い争いの相手は息子さんで、救助を呼ぶためにWi-Fiの回線を使わせてほしい、パスワードを教えてほしいと、息子さんと交渉をしていたのではないですか? ですが結局、猿渡が直接警察を呼びに行った辺り、その交渉は決裂したようですがね。
あなたは何としてでも息子さんを説得して救助を要請し、宿泊客の安全を確保するべきでした。恥を忍んで息子さんの存在を宿泊客に明かし、相談するといった手もあったはずです。柳沢さん、あなたはペンションのオーナーとしての、そして父親としての責任を果たさなかった。違いますか」
天候が絶望的であったとはいえ、通報が早まり、その分早く警察がペンションに到着することができたのならば、隅野卯月の遺書にも書いてあったように、卯月の自首が早まり、彼女が自殺する結末を防げたかもしれない。
事件を増長させたという点で言うならば、この人にも当てはまるはずだ。
二人の間にしばらくの沈黙があった。
……まさか、いきなり逆上して襲ってきやしないだろうか?
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