#1 鵜飼有朋の朝の話

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#1 鵜飼有朋の朝の話

ブラームスのヴァイオリンソナタ第1番ト長調作品78「雨の歌」。 窓の向こうに細く静かな雨の音が流れる朝は、この曲が聞きたくなる。 だから今朝はこの曲の楽譜を選び、寝室の窓辺に置いた小さな机で読んでいる。 雨の日に聞きたくなると言っても、タイトルからではない。 ブラームスはこの曲を「雨」をイメージして作っていないし、「雨の歌」というタイトルも付けていない。 自身が別に作った「雨の歌」という歌曲の主題が、この曲の第3楽章の冒頭に用いられているために、ブラームス以外の人が通称で「雨の歌」と呼んでいる、そんな曲だ。 だけどこの曲には、ブラームスの悲しいエピソードがある。 僕は今朝みたいな雨の音を聞くと、涙を連想してしまう。 だから僕はこんな雨音の日には、この曲が聞きたくなってしまう。 全3楽章で構成された30分弱のソナタ。 作曲家が書き残してくれた楽譜があるから、150年近く経った後世でも、何回でも再現する事が出来ている。 僕が朝に音楽を聴かずに楽譜を読むのは、楽譜に散りばめられた作曲家のメッセージを拾い集め、朝イチの空っぽの脳みその中で、作曲家が何を考え、どう思いながらこの曲を作ったのかを考えながら音楽を奏でられるからだ。 想像しながら頭の中で鳴り響く音色を、僕は意識を研ぎ澄まして聞いている。 そして読み終えた後は目を閉じる。 13年前のあの言葉を思い浮かべ、体中の細胞を使って確認をする。 ーーーだから嫌いにならないでーーー 大丈夫。 今日も嫌いになっていなかった。 その確認が終わると眼を開けて、僕は1日を始める。 寝室には2つの本棚とバイオリンをしまっている低い棚がある。 175センチの自分の目線より上にならない高さの本棚を選び、参考書や教材と楽譜は分け、作曲家名のアルファベット順に並べてあるこの本棚は、この部屋を訪れたみんなが褒めてくれる。 そんな本棚のJの部分にブラームスの楽譜を戻すと、寝室を出て大学へ行く準備を始める。 (ブラームスはJohannes Brahmsと表記するのでJの欄) シャワーを浴びて朝食を終えると9時を少し過ぎていたが、授業まではまだ時間がある。 大学3年になると授業が1限から無い日もたまにあり、今日がその日で、11時の2限からだった。 「まだ1時間以上あるか」 僕の住むマンションから大学までは徒歩で約15分なので、家を出るまでの時間、寝室の隣にある防音室でバイオリンの練習をすることにした。 選曲のために本棚へ戻り楽譜を眺めていると、ブラームスを戻したJの所で視線が止まる。 そこはバッハ(Johann Sebastian Bach)の楽譜も置いてあるが、丁度1冊抜いたような僅かなゆとりがあった。 「あ、そうか」 その瞬間、2日前、ボウイングを写したいと言われ、将生にパルティータのガボット3番の楽譜を貸したのを思い出した。 将生は、同じ大学に通う2つ隣の部屋に住む同級生で、地味な僕とは何もかもが正反対の、見た目も音色も華のある男だ。 その存在感は入学式からすごかった。 僕が通う滝田音楽大学は、毎年入学式では首席入学の生徒が代表して演奏する儀式があるのだが、そこで将生がパガニーニのラ・カンパネラを披露した。 整った顔立ちと8頭身のスタイルから繰り出されたその華麗なる超絶技巧を駆使した旋律は、会場に居たほとんどの生徒と保護者と先生たちに、多方面でディープインパクトを与えてしまい、在校生代表として演奏してくれた3年生の先輩の素晴らしいリストを、見事に蹴散らした。 僕もあの日、もちろん講堂で将生の演奏を聴いていたが、所々楽譜とは違ってはいたものの、「この人はステージ側に行ける人だ」と瞬間的に感じたのを、昨日の事のように覚えている。 「悪魔のバイオリニスト・パガニーニの再来か!?」と、一躍大学の有名人になった将生が同じマンションに住んでいると知った時は驚いたが、それ以来将生は僕に良くしてくれるので、周りから見て僕が将生の親友だと認識される存在になれた。 「ボウイング、もう写せたかな」 今日は将生も2限からなのでまだ部屋にいるかもしれないと思いつつ、ラインに確認のメッセージを送ると、僕はマスネのタイスの瞑想曲の楽譜とバイオリンを持って、防音室へ向かう。 8平米ある防音室は、演奏に集中するため譜面台と小さな2段boxしか置いていない。 チューニングはスマホに入れたアプリで行う。 譜面台に楽譜を置きチューニングを終えると、僕はバイオリンを構え、練習を始める。 タイスの瞑想曲はオペラに登場する曲で、主人公の娼婦タイスが信仰の道へ進むまでの揺れ動く心を描写した、とても美しい曲だ。 女性の気持ちを音に乗せて表現するのが僕にはハードルが高く、楽譜からイメージする音色が中々出せないので、今は練習を繰り返しているところだ。 あっという間に30分が経っていたので、スマホを確認すると、将生に送ったラインは未読のままだった。 寝てる? 練習中? それとも外出? どちらにしても、既読にならないのなら、この後大学で会った時に確認すればいい。 そう思った矢先、今日の2限で将生に貸している楽譜を使う事を思い出した。 やばい、やばい、やばい。 すぐに電話を掛けるが、コールはするが将生は出ない。 一度切ってもう一度掛け直してみても、やはり誰も出てくれない。 仕方がない、とりあえず将生の部屋へ向かうことにした。 防音室に居ても、インタフォンは分かる仕組みになっているし、眠っていたら起こせばいい。どうせもうすぐ大学へ行く時間だ。将生が不在だったらそのまま大学へ行って、楽譜を何とかするしかない。 僕はバイオリンとトートバッグも持つと、2部屋隣の303号室の将生の部屋のインタフォンを押す。 だが、暫く待っても、何回押しても、中から応答は無い。 「やっぱ居ないのか」 諦めて大学へ向かおうと思った矢先、ガチャっとドアが開くと、中から将生が顔を出した。 「有朋じゃん。おはよ。何、どした?」 「お、おはよ。将生のスマホに連絡したんだけどつながらなくて。こないだ貸したパルティータの楽譜なんだけ、ど……」 ふと目に入った将生の姿を見て、言葉に詰まった。 ドアの隙間から見えた将生は、一糸まとわぬ真っ裸でギターを持って立っていた。
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