ウラ小樽の、君と。

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 「いやいいんん、や!」  たぶん、僕は寝ぼけてる。  寝ぼけるだけの理由はある。  山ほど、ある。  だから、そんなに動揺はしなかった。  たとえ、さっきまで地下鉄に揺られていたのにいきなり見知らぬ駅前に自分が立っているのを発見したとしても、その自分の目の前で女のひとがくすくす笑っていたとしても、そのひとが僕のお尻を指さしてすっとんきょうな声を出したのだとしても。  「やんや、ちょっと、なんっまら、めんこいんでしょ! それ!」  ゆるくウェーブした肩までの赤みがかった髪を揺らして、そのひとは両手を口にあて、なにやら身悶えしながら小さく叫んだ。ちょっと切れ長で目尻の上がったおおきな目を半月のかたちにしてる。瞳の色はすこし茶色を帯びてるように見えた。  そして、茶色なのは、瞳だけじゃない。  耳。  頭の上に、三角形の、茶色の耳がふたつ。  短い茶色の毛に外側が覆われて、内側はふわふわの真っ白の産毛。  ヘアバンドとか、カチューシャとか、そうやつなのかなあって思ったけど……そのひとが笑うたびに、ぴこぴこと揺れたり伏せたり、震えたりしてる。  「ねね、お兄さん、内地のひとだべ? 内地ったって、オモテのさ」  「……え、なに」  「あはは、なにいってんのかわかんない、ってかい? だべなあ。したらやっぱし、オモテから来たんだべさやね!」  「……おも、て」  「そ、オモテ。してここは、ウラ。ウラ小樽」  「お、小樽……って、あの、北海道の……?」  「あはは、北海道以外に小樽ってあるんだべか。そ、ここ、北海道。といってもウラ北海道だけどね」  言われて、見回してみる。  出張でときどき行くような、地方都市のごく普通の駅前の風景。バスターミナルがあって、タクシーが何台か並んでいる。目の前のおおきな道路の向こうには、いかにも駅前にありそうな、ごく普通のスーパー。振り返れば明るい色のレンガ調の駅舎におおきな時計が見える。  その時計が示す時刻は、午後六時ちょうど。  僕は思わず、あれっ、と声を出してしまった。  担当しているシステムの納期が迫っていたから、ここのところずっと残業。十時に会社を出られれば良い方で、終電に乗ることも多かった。今日もそう。だから今は、零時ちょっと前くらいのはずなのだ。  腕時計を見る。やっぱり午後六時。  もう陽は落ちているけれど、まだ遠くの空には茜色が残っている。  その、遠くの空を見やったとき。  目の前は交差点になっていて、ずうっと向こうにまで道が続いている。下り坂だ。その坂の、下り切ったあたりに、海が見えた。港のようだった。  「……海、だ……」  おもわず呆然としながら声を出し、僕は固まっていた。  その目の前を、なにかが横切る。手のひら。  おおい、というように彼女が僕の鼻先でひらひらと手を振っている。自分をみろ、っていうアピールらしい。  動くたびに、ふわふわの柔らかそうな素材の白のコートが大きく揺れる。  「ちょっとお兄さん、なしたのさ。こわいのかい」  「……いえ、別に、恐ろしくは」  「ぷぷ、まあたそんなベタな反応! 疲れてるのかい、って訊いたんだべさや」  「あ、大丈夫、です」  「ふうん……ね。さてはお腹、空いてるしょ」  にひひ、といたずらっぽく笑いながら僕の顔を下から見上げるようにする。  たしかに食事をする余裕もなく仕事をして、終電に間に合うように走って地下鉄に飛び乗ったから、昼からなんにも腹に入れてないことになる。  そうやって意識したからか、くぅ、と音が出た。  「あはは、やっぱりね! あたしキタキツネ型だからさ、小動物の体調とか、けっこう敏感に感じとるのさ。すごいしょ」  「き、きつね、型って……小動物って」  「ん。ほら」  そういい、くるんと身体を回してみせる。  ふわり。  コートの下、どこからどう出ているのかわからないけれど、黒のジーンズのお尻のあたりから……しっぽ! 全体が茶色で先端が白、男性の腕ほどの太さの、ふわふわしたしっぽが、彼女の背中で揺れていた。  「そういうお兄さんだって、めんこいの、持ってるしょや! ふふふ」  また嬉しそうに笑いながら指差すのは、僕の腰。  身体を捻って後ろを覗き込む。  しっぽ。  ちょっとグレーを帯びた茶色の、真ん中がふうわり広がった、しっぽ。  びっくりした僕の感情を読み取ったかのように、ぴょんと跳ねた。そうして左右にゆうらゆうらと揺れている。  「な……なんだ、これ」  「なんだ、って、しっぽに決まってるしょやね。だけどあたし、エゾリスの男のひとって初めて見たさ。あんまり珍しくて声、かけちゃった。へへ」  「エゾ、リス……? え、なんなのこれ。それに……君、だれ……?」  「まあまあ! あぶらっこい話はなんか食べながらするべさや! あたし、いい店知ってるから案内する。お兄さん、中華、大丈夫かい?」  「……あ、嫌いじゃ、ないけど」  「よかった! じゃ、しゅっぱぁつ!」  そういい、ぐいっと僕の腕を取る。肘の内側に手を回す。そのまま歩き出した。僕はもつれるようになりながら彼女についてゆく。  交差点はちょうど、青信号の点滅。彼女は走り出した。僕も引っ張られるように走る。いつのまにか肘から離れていた手のひらは、相手の手のひらを掴んでいた。  転びかけてなんとか立て直して、足元から上に視線を戻す。  振り返る、彼女の視線。瞳がうっすら輝いているように見えた。宵の口の街の照明が映り込んでいるのかもしれない。  でも……なんだろう、これ。懐かしいような、苦しいような。胸のどこかに何かを感じて、僕は息を詰まらせた。  その顔を、急に走って苦しかったと解釈したのか、渡りきったところで彼女は手のひらをあわせてみせた。     「ごめんごめん、あたしほらキタキツネだからさ、走るの好きでさ。なんも考えないで足、出ちゃうんだ。てっくり返りそうになっちゃったね、ごめん」  「キタキツネって……走るの、好きなの……?」  「ん? うーん、でないべかな」  「ええ……」  さっき見えていた長い坂を下ってゆく。片道三車線くらいのおおきな通り。歩いているひとはそう多くない。ただ……すれ違うひと、男性も女性もみんな、形も色もさまざまな耳としっぽ、つけている。じっと見ないように意識して視線を下げて歩いた。  なんだかオレンジ色の照明が多い気がした。雪国では視認性をあげるために街路灯をオレンジにしているって聞いたことがある。  ということは、やっぱりここは……小樽、なのかな。ウラの、小樽……?  と、急に立ち止まり、女のひとが両の手のひらを口にあてた。  「あ、ばっくり忘れてた。やんや、ごめんね。あたし名乗ってなかったべさやね! れもん、だよ。果物のれもん」  「れもん、さん……」  「お兄さんは?」  「あ、僕は……僕、は」  名乗ろうとして、言葉を呑んだ。誤魔化したんじゃない。名前が思い出せなかったのだ。立ち止まり、喉のあたりに手をやった僕を、れもんさんはじいっと見ていた。  「……名前、忘れちゃったんだ」  「……あ、う」  「……そか。そ、か。よし! じゃ、君は今日から、えぞりん!」  「は」  「エゾリスの、えぞりん! いっしょや、めんこいめんこい! したらほら、お店行くべ、こわいだろうけど頑張れ、えぞりん!」  女のひと、れもんさんは勝手につけた僕の名前を呼びながら、大きな笑顔で手を引っ張った。いつのまにか、お兄さんから君に格下げになってるし。  しばらく坂を下り、右折してアーケード街に入った。道幅、けっこう広い。十メートルくらいはあるんじゃないかな。その左右にお店が並んでいる。肉屋や魚屋というのではなくて、喫茶店やファッション関係の店が多い。観光客向け、なのかな。  「都通り、っていうんだよ。夏になると(うしお)祭りっていうのがあって、ここを地元のみんなで踊りながら歩くのさ。潮練り込み、っていうんだ。花火もあがるし、屋台も賑やかで楽しいんだわ」  れもんさんは歩きながら嬉しそうに説明する。  そうしているうちに、一軒の中華料理の店の前についた。味のある感じの、けっして大きくはない店構え。  れもんさんは躊躇わずにガラスの引き戸をがららと開けて、こんにちはあ、と声を上げた。空いている席を見つけて腰を下ろし、僕にも勧める。  水をもってやってきた年配の女性の店員さんが、れもんと僕を交互に見て目を細めた。ちなみにそのひと、たぬきの耳と、しっぽ。  「あら、れもんちゃん。なしたの今日は、お友だちづれかい」  「うん、ちょっとねえ。おばちゃん、いつもの、ふたつ」  「はいはい、焼きそばふたつね……だけど、れもんちゃんさ」  「ん?」  「はっちゃきこいて、ばふらかぜ、ひくんでないよ」    れもんさんは飲みかけた水を吹き出しそうになり、げへがはごほと、すごい音を立てて咳き込んだ。  「お、おば、おばちゃん」  「がははは、なんもいっしょや、あんたもツガイの季節だべ」  豪快に笑いながら厨房に去ってゆく店員さん。れもんさんは顔を真っ赤にして下を向いている。  「……あの、ばふらかぜ、って、なんですか」  「ああああ言わない大きな声で!」  ぶんぶんと空気を撹拌するように手を振るれもんさん。なにか恥ずかしい言葉なんだろうか。れもんさんは真っ赤な顔のまま指先で髪をくるくるして横を向いていたが、やがて誤魔化すように口を開いた。  「あ、あのさ……えぞりんさ、こっち、なして来たの」  「なして、って……どうして、ってことですか。ううんと……地下鉄乗ってて、うたた寝して、気がついたら……さっきの場所に立ってました」  「ふうん……じゃあその、地下鉄の中でなにか見たとか」  「なにか、って」  「風景、とか」  「……地下鉄だから、窓からはなにも……あ、でも」  「うん」  「写真。向かいの座席の上に、広告が出てて、その写真が……そうだ、あの、さっきの場所と、似てるかも……」  「オモテの小樽の写真だったんだねえ」  そうか、というようにれもんさんは腕組みして、頷いた。  「えぞりん、その写真みて、どう思ったの」  「……こんなところ、行きたいなあ、って。夕焼けの写真で、遠くの港が赤く光ってて、なんだかほっこりした風景で、こんなところで暮らしたいなあ、って」  「なるほど、ね。それでウラに呼ばれちゃったんだ」  「……その、オモテとかウラって、なんなんですか……」  ちょうどそのとき、店員さんがおまちどおと言いながら、ほっかほかに湯気のたつ皿をどんと二人の前に置いた。  炒めた麺の上にたっぷりの野菜、そして海老やイカ、豚肉。とろりとした餡をかぶって湯気の中で輝いている。ふわりと立つ優しい香りに、僕は思わずつばを飲み込んだ。  れもんさんはこっちを見て、にひひ、という表情。それでも背筋を伸ばし、ぱん、と手のひらを合わせた。  「まずは、食べるべさ。はい、いっただきまーす」  「いただき、ます」  箸を取り、麺をぐいっと持ち上げ、はふっと口に含む。  衝撃。なんだこれ。  熱さと旨さと、とろみ感。ほどよく火通しされた麺の香り、ふっくらした海鮮の香り、みんながどんと飛び込んでくる。たまらない。思わず壁を見上げる。品書きには、あんかけ焼きそば、ってある。そうか、これが、小樽名物のあんかけ焼きそば……。  僕はがふがふと、皿を抱えるようにかきこんでいった。  その僕を見ながら、れもんさんは嬉しそうに小さく笑っている。前髪を抑えながら、少しずつ口に運んでいる。  あいまに少しずつ、言葉を挟む。  「……ウラは、ね。オモテの影。影っていっても、暗いわけじゃなくて。むしろ、オモテでできなかったこと、オモテで叶わなかった夢を叶える場所。オモテで強い想いを残して世を去った人とかが、ね」  ぶふっ、と、僕は麺を吹き出しそうになった。  「え、そ、それって、僕、死んじゃったって……こと」  「や、なんも死んだ時ばかりでないんだ、こっち来るの。強い願いをもったときにだけ、ウラへの境界が開くのさ」  「……強い、願い……え、僕、そこまで強く、願ったわけじゃ……」  そういうと、れもんさんはちょっと黙って、しばらくもじもじして、それから唇を噛み、ぴょんと頭を下げた。  「……ごめん。あたし」  「え、なに……」  「君、来たの。あたしのせいなのさ」  「……どういう、こと」  れもんさんは答えずに、やきそばに取り掛かった。仕方なく僕も同じようにする。ほどなく食べ終わり、ついてきた中華スープも飲み干した。ふたりともふうと息をつく。  れもんさんがごちそうさまあと声をあげ、厨房の横のレジに向かう。あ、と僕がポケットの財布に手をかけると、れもんさんはにへへっと笑った。    「持ってないしょ、これ」  示して見せたのは、なにかたくさんの動物が描かれている、カラフルな紙。お札なのかな。確かに持ってない。僕はこくんと頭を下げた。れもんさんは、なんも、と言いながら手を振った。  店を出る。れもんさんは何も言わずに歩いてゆく。アーケードを戻り、さっきの道に出て、右折。坂を下って、海の方に向かう。  少し進むと、はっきりと港が見えてきた。船も停まっている。  そしてその、手前。川のようなところに、石づくりの小さな橋がかかっている。  近づいてゆくにつれ、風景は、どこかで見たことのあるものになっていった。  これ……運河。  小樽運河だ。  「オモテでは来たこと、あるのかい?」  また大きな交差点を渡り、運河にかかる橋のたもとまで来た。れもんさんは橋脚に手をかけ、遠くを見ながらつぶやくように声を出した。  「いえ、北海道、行ったことがなくて……でもテレビやネットで、なんども見たことあります、この風景」  「だべねえ。オモテではロケとかよっく使われるらしいね。ウラは静かなもんだけど、オモテはわやだろうね……ああ、あたしも久しぶりに来たなあ」  そういい、伸びをする。  運河の向こう側の岸には、ずらりと倉庫のような建物。こちら側は石造りのビルや店舗が多い。橋のたもとから運河沿いにずっと歩道があって、そこに古い時代のガス灯を連想させるような照明が並んでいる。  柔らかで幻想的なあかりに照らされるれもんさんの横顔を、僕はただ、ぼうっと眺めていた。  「……あの、ね。さっきの話」  れもんさんは橋桁に両肘をおいて、組んだ手の甲に顎を載せている。そのままの姿勢で、小さく声を出す。    「……あ、はい」  「あたしのせいだ、って、言ったしょ」  「はい」  「あのね、あたし……げっぱなんだ」  「げっぱ……って」  「あ、ごめん。びり。最後。あたしの周りでね、同じ世代でツガイになってないの、あたしだけでさ」  「……ツガイって……動物の、夫婦、ですよね……」  「君だってエゾリスじゃん」  ちらをこちらに横目を走らせ、れもんさんは口先を尖らせた。それでもすぐに視線を前に戻して、ふうと息をはく。  「あたしさ、この世界、出たくてさ。オモテ、行きたくて」  「……どうして」  「ここは、平和。悪いことはなにも起こらない。戦争も、諍いもない。あたしはここで生まれたからオモテ、知らないけど、あっちではいろいろ大変なんだべ」  「……それは、まあ、はい……」  「でも、その代わり、輝いてる。生き生きしてる。ときどき向こうから来るひとに話聴くだけだけど、みんな言う。辛いこと、嫌なことたくさんあったけど、素敵な人生だった、って。みんな、疲れてるけど、やり遂げた、って表情して、さ」  「……」  「ここは、影の世界。なんも起きないし、なんも困らない。病気もなくて、寿命も長い。でも……」  上を見る。  「あたし、生きてみたいのさ。いずい思いいっぱいして、なんまら悩んで、困りまくって、それでもそういうの、自分で選んだひとと一緒に、乗り越えて、さ」  「自分で、選ぶ……」  「ん、こっちではね、ツガイ……配偶者、世界が勝手に用意してくれるんだ。いつのまにか、そこにいて。それを受け入れるだけ。でもあたし、嫌だった。だから逃げ続けて、それで……強く願えばオモテから、波長が合うひとが来るって、そして、向こうに……オモテに連れてってくれるって、都市伝説、信じてさ。願いまくった。なんまらがばら、めっちゃ願って……そしたら、君を、見つけた」  僕はなにも言えない。ただ、れもんさんの長い尾がふわりふわりと動くのを眺めていた。遠くの船から、ぼお、っていう汽笛。  れもんさんはしばらく黙って、それから手を橋桁からあげて、僕のほうへ振り返った。後ろに手を組み、肩をすぼめてみせる。  「でも、ダメさ。あたし、はんかくさいわ。なにしてんのさ、ってなった。さっき、君を見つけて、嬉しかった。すっごく。願い通じた、って。でも……」  「……」  「えぞりん、名前、忘れたしょ。自分の、さ。あたし、君のオモテの暮らし、奪っちゃったんだよね。名前も、なにもかも。なんもこっち来ることなんか望んでない、えぞりんの、さ。だから……ごめん」  「……う」  「ほんと、ごめん。返すね。向こうに……」  そういい、僕をじいっと見つめて、それからゆっくりと目を閉じた。  しばらくそのまま、穏やかな表情。なにかを祈っているように僕には見えた。  やがて、彼女のまわりにほのかな光が漂いはじめた。  小さな蛍のような白い光の粒は、やがて数を増して、波のような、渦のようなものになった。淡く流れながら、彼女を包んでゆく。  そのまんなかで、彼女は目を開いた。後ろに手を組んだまま、首を傾げて、悪戯をみつかった子どものような表情を浮かべた。  「へへ。なんかさ、オモテのひとを戻すときには、呼んだひとは消えなきゃダメなんだって。交換みたいなもんだべかね」  「……え、消えるって……消えるって」  「大丈夫、うちらウラの者って、影だから。死んじゃうわけじゃないよ、もともと生まれていないし、居ないんだもん。気にしないで」  そう言っているうちに、彼女を包む光が眩しさを増していった。その姿が白のなかに霞む。  僕は足を踏み出す。踏み出すけれど、どうにもできない。  「あんかけ焼きそば、美味しかったしょ。オモテに戻ったら小樽、行ってみてや。恋人とか、奥さんと一緒にさ。甘いものもたくさんあるよ。ガラス工房にも行けばいっしょ。きっと、連れてったひと、喜ぶわ」  「……なに、いって」  「ほんとにちょこっとだったけど、君に会えて、オモテの空気かんじられて、嬉しかった。したら……」  光が一瞬、煌めいた。  彼女はにへへと笑い、右手をあげて、振ってみせた。  「……したっけね。元気でね」  走っていた。  僕は光に、飛び込んだ。  れもんさんの手を取り、驚く彼女の顔を、胸に押しつけた。  なにをしているのか自分でもさっぱりわからない。  さっき逢ったばかりの、れもんさん。  交差点で手を引いて。  茶色の瞳で、僕を見て。  ぜんぜんわからないことばかり言って、あんかけ焼きそば、奢ってくれて。  キツネの耳の、キツネの尾の、にへへって笑う彼女。  絶対に失ってはならない。  彼女の髪の匂いを感じながら、僕はなぜか、そのことだけを確信している。  遠くなる意識のなかで、僕は、だいじょうぶだよ、って、れもんさんに小さく囁いている。  ごとん。  カーブに差し掛かって、車両が揺れた。  その衝撃で僕は目を覚まし、薄目を開けた。  照度を落とした蛍光灯の下で、たくさんのひとが疲れた顔を並べている。僕の顔もきっと、同じに見えているだろう。  降りる駅はまだ先らしい。もう一度目を瞑って、僕はふうと息を吐いた。    と、僕の左肩に頭をもたれかけるようにうたた寝していたひとが、目を覚ましたようだった。茶色の髪が僕の肩に流れていることに、そのときはじめて気がついた。  んん、と、そのひとは身体を戻した。  寝ぼけていたのが戻ってきたのか、急にあわててぴょんと姿勢を戻し、ごほんと咳払いをする。髪を触って、照れくさそうな表情。  ちらとそちらを見た僕と目が合い、互いに逸らす。  彼女が膝に載せているバッグに、アクセサリがぶら下がっている。  茶色で、先が白い、ふわふわの毛。  僕にはそれが、キタキツネのしっぽだってわかっている。  「……れもん、さん」  「……えぞりん」  ふたりが同時に出した声はほんとうに小さくて、ほとんど周囲の騒音にかき消されていた。  でも、僕たちにはそれで充分だった。      <了>
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