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この金額と条件では難しいと言われて深く考え込んだ。もちろん、けたたましく鳴くセミの声は聴こえていたし、それが次第に静かになって行くのも分かった。
そろそろ正座も限界だった。足が痺れてきて、立ち上がるのが困難に思えた。自分から勝手に訪ねてきて、茶の間に上がらせてもらい、勝手に正座して勝手に痺れさせているのだからどうしようもない。僕は、「そうですか」と、話を切り上げる形で立ち上がると案の定ふらついた。左足が痺れている、思わず柱に手を添えて何とか堪えた。
「大丈夫かい?」
「ええ、すみません佐藤さん」
そんな単純なやり取りだが、彼の顔を見ると白髪交じりの眉毛と眉毛の間に皺が寄っているのが分かる。明らかに好印象では無かった。僕にはこの交渉を失敗させて帰るという選択肢以外の未来は、今日のところはどう考えても思い浮かばない。半ば圧を背中に感じながら、ガラガラと玄関を開けると、外は風呂釜を引っくり返した大雨だった。そこで初めて、傘を家に忘れたことに気付いた。夕方から大雨という予報もちゃんとチェックしていたのに。
翌朝、重く感じる体を起こして、ロールパンを二個食べ、身だしなみを整えた。
毎度スーツに袖を通すと気持ちを新たにする感覚になるのだから不思議だ。今日は彼の家へ借りた傘を返しに行かなくてはならない。でも、ただ手ぶらで行くのも申し訳ないと思い、簡単な菓子折りを買って行くことにした。
玄関には網の傘立てが一つ置いてある。そこには殺風景であるはずの独り暮らしの玄関には似つかわしくない光景があった。青、深緑、黄色、赤といったカラフルな物は、一本ずつフレーバーのように綺麗に彩られている。そして、何本かある透明な物も引き立て役を買って出ているように見えた。
集めている訳ではないのだが、どうしても増えてしまう。借りたらすぐに返せばいいのに、疎遠になったり、はたまたそのまま譲渡したりされるから所有数は次第に多くなる。僕の性格上、物を簡単に棄てられないので、基本的に余程壊れてない限りは自宅保管となるわけだ。
昨日の彼の自宅電話へ連絡をし、〝傘を返す〟という名目で何とかアポイントメントを取り付けることが出来た。
「いいよ。でも、今日時間取れないから、返して貰うだけだからね」
今日は機嫌は良さそうな声のトーンをしていたから、もしかしたらワンチャン行けんじゃね?なんてことも考えてた。
彼の自宅に着くと、インターホンを鳴らし、面構えの良い両開きの扉の前で待つ。その片方が手前側へ開くと、最初に眉間が見えた。皺の寄ったあの眉間だ。
「こんにちは、お邪魔します」
「いやいや、させないよ。今日は時間がないと言ったでしょう」
どさくさに紛れて調子良く上がらせて貰おうと思ったが、やっぱりそうは問屋が卸さないって感じだ。彼も彼で、この男は全く懲りてないなといった表情でこちらを見ている。営業職で培った僕の能力をなめないで欲しい。
僕は彼の顔を伺いながら、来るとき買ってきた菓子折りをおもむろに差し出した。借りた黒い傘を添えて。
「それは困るよ、そんな物を受けとる筋合いはないね」
「いえ、これはほんのお礼です。傘のお礼なんです」
「要らないよ。傘を置いて、もう帰ってくれ」
絶望的な状況だった。主人の反応がこれでは、もうこの家に営業をするのは駄目だと思いながら玄関の傘立てに目をやった。ビニール傘が数本と黒い傘が二本(私が借りた傘とは別に)、そして赤い傘と黄色い傘が一本ずつ立ててある。そして後の一本、何よりも目立つのは竹製の和傘だ。
おかしい。
傘が数本あるのは分かるが、どうもおかしい。この広い家に住んでいるのは彼一人だと、昨日彼本人が言っていた。例え借りたりしていたとしても、その本数が異常だ。僕の家にある傘の倍はある。なにより、この本数は昨日は無かったのだ。
「……誰か居ますね」
「ん? 何急に?」
「お邪魔します」
「ちょ、ちょっと君!」
僕は靴を脱いで、家の中をくまなく探した。
「あ、あった!」
僕が開けた部屋、そこにはおびただしい数の傘が部屋の畳の上に敷き詰められるように並べられていた!
「こ、これは……その……」
彼は明らかに慌てている。
「いいえ、あえてお聞きしません。僕は見誤っていました。匿っていたのは人では無かったのですね」
置いてある傘は、玄関に置いてあった竹製のと同様のものが中心だ。
「この数は異常です。つまり、あなたは傘職人ですね? しかも定年されてから始められ、随分と経験を積まれている。恐らく匿名でネットショップ販売でもされているのでしょう、だから分からない訳だ。そもそも、これは趣味のレベルでは無いです」
「そ、それがどうしたというのだ! いいだろう、趣味の範囲を超えて販売しても! 君には関係の無いことでしょうが!」
「ええ、何の問題ないです、あなたが傘を作ろうが、販売しようがね……。でもね、この傘の裏側の物に僕は興味があるのですよ!」
僕はそのうちの傘の一本を手に取り、開いた。
和傘の内側にはビニール袋に入った白い粉のような物が、いくつも付いていた。
「こ、これだ! あなた、もう言い逃れは出来ませんよ!! 確たる証拠を掴んだ!」
「君が?! ま、まさか! く、くうう! そ、そんなぁ、私は、私はぁぁ!!」
「な、何故です?! 何故、こんなことを!」
「で、出来心だったんだ! もう何年も前に作らないと決めたんだ、和傘一本で全うに生きていこうと! でも、早くに妻に先立たれ、二人の息子は家を出ていき、私は心に穴を開けてしまった」
「だからって! こんな!」
「す、すまない! 本当にすまなかった!」
彼は本当に後悔をしているようだ。もう、二度とこのようなことはしないと約束はしてくれたが、罪は罪。しっかり償いをしてもらわなければならない。
「じゃあ、しっかり償いをして貰いますよ。では行きましょう、塩野さん」
「くぅぅー。まさか君が、関係者だとは思わなかった」
「ええ、今のあなたの想像の通り僕は、ただの営業マンじゃない。Gメンです」
「まさか、マトリ(※麻薬取締官の略)だったとは……」
「え? マトリ?」
「……え?? 違うの?」
「ええ、僕は最近流行ってるサトウキビ農家からサトウキビを盗んで、砂糖へ加工して売りさばいているというサトウキビ泥棒を追っている、サトウキビGメンですが……」
「そうなの? よ、良かったぁ。違うよ、私は違うよ、サトウキビなんて盗んでない」
「これ、サトウキビの砂糖じゃないのですか?」
「違う違う、私はサトウキビなんて集めてない。ハハッ、確かに名字は佐藤だけどね~、これ麻薬の粉だよ」
「……」
「良かったぁ、てっきり麻薬取締官かと思ったよ」
通販サイトで塩野という偽名を使っていたところまでは分かっていたので、まさかとは思ってマークしていたのに、単純な話では無かった。
僕はあからさまにがっかりしたが……。
彼の顔色がまた青くなり始めた。
いや、今さら遅いんだけれども……。
「あ……あの……黙っててくれますか?」
「……いえ、通報します」
そりゃそうだろ。
ちなみに僕は普段、表向きには『記念コイン
の販売』の営業をしながら、情報収集を行っている。
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