偽りの主従

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偽りの主従

 *  寮の自室で目を開けると窓の外が白んでいた。額の上には熱を冷ますために濡れた布が置かれていて、起きた拍子に膝の上に落ちた。  最初この部屋に入ったときは埃だらけだった古い真鍮枠の姿見にイオリーが映っている。昨日オルフェが磨いたのだろうか。 (……だって、俺、これ、だもんなぁ、信じられるか?)  鏡に映る自分をまじまじと観察した。  男を抜きにしても、オルフェ・アルメリアに釣り合う容姿だとは思えない。彼より勝っているのは、人懐っこさとか愛嬌くらいのものだ。彼のような美しい容姿は、あいにくと持ち合わせていない。ありふれた褐色の瞳に明るい髪。鳥のように跳ねた愉快な寝癖は相変わらずだった。――あるのは、知識欲と魔力だけ。  乱れた寝間着はすでに整えられていた。怪我自体は元々オルフェの治療で治っていたし、熱が下がれば身体のどこにも不調は残っていない。イオリーに付き合って夜通し看病していたオルフェは、自室に戻らず同じベッドで眠っていた。狭いベッドなので、長い足を曲げて横向きで眠っていた。その姿は昔のようにあどけなく見えた。  あんなことをしたのに、オルフェはイオリーの右手を握っているだけ。  もっと親密で夫婦間でしもしないような、やらしいこともしたのに。その握られた手が、イオリーに対して友愛以上を求めていない証拠のようで切なかった。 (慎ましいというか、なんというか)  顔にかかっている柔らかな前髪を左手でそっと払うと悪い夢でも見ているのか、長いまつ毛には雫がついていた。  ――ごちそうさま、イオリー・オーキッド。  薄いピンクの唇に昨晩のオルフェの姿が思い出される。イオリーを求める欲にまみれた艶やかな声が耳から離れない。刹那、ぞくりと背中に甘やかな快感が走る。慌てて顔を伏せ邪な感情を払拭した。  いくら交際経験がなく、人より鈍感な自分でもいい加減気づく。  オルフェが向ける自分への思い。けれど、オルフェは心からイオリーとの未来を望んでいない。  誰よりも大切だと、言ってくれた。何より、イオリーの溢れた魔力を甘露のように吸ってくれた。 (なぁ、俺の魔力、美味しかったんだろ。俺、すごく嬉しいよ、だから……俺は、それでいいのに、泣くなよ)  イオリーを奔放に求めた自分を、アルメリア家の貴族のプライドが許さないのだろう。  どんなに足掻いたところで血は嘘をつかないし、残酷だ。  首につけられた誓約の魔法は、イオリーを自分の下に置きたい欲の象徴で、それ以上でも以下でもない。トレニア先生の言った通りだ。イオリーは、それを身をもって理解した。  オルフェの表情は、好きな人を初めてその手で抱いた顔をしていない。  当たり前だ。オルフェの目にイオリーが魅力的に映るのは、無限の魔力を生み出す泉のような身体を持っているからだ。 「こんな身体でいいのなら、あと三年、全部お前のものにしていいよ。だから、笑ってよ」  風に吹き消されるような小さな声で囁いた。  初めて知った恋心を一晩で失った。それでよかった。オルフェがイオリーを大切だと言ってくれたのと同じように、イオリーだってオルフェが一番大切だから。  学生の間だけでも、イオリーを一番にしてくれたことを喜ぶべきだ。  誓約の首輪で繋がったことで、繋がっている間は、オルフェのそばにいられる。  自分は、それ以上を望んだりはしない。絶対に。  イオリーは、そっとオルフェの涙を指で拭った。すると固く閉じられていた目が開かれる。急な太陽の光が眩しいはずなのに、オルフェは、一番にイオリーを見てくれた。 「ッ、イオリー、身体は?」 「大丈夫、大丈夫。わざわざ訊かなくても、俺と繋がってるんだから分かるだろう? ほら? もう元気。魔力酔いも治っている」  そう言ってオルフェの手をぎゅっと握り返した。 「あ……あぁ」 「オル、世話かけて悪かったよ。けどさぁ、お前も、俺の魔力で、お腹いっぱいになったろ? 魔力は治療代ってことで許してよ。もー、俺だって、すごい恥ずかしかったんだからな! だから怒るのはなしだぞ」  何でもないことのように、おどけた声で言った。  イオリーはオルフェの手を離し、オルフェに背を向けベッドを降りた。 「イオリー……私はっ」  イオリーは、その先の言葉を聞くつもりはなかった。それはオルフェには必要がないことだから。きっと、オルフェだって言えない。彼は、公爵家の息子、オルフェ・アルメリアだから。 「ほら、オルフェも早く起きないと。今日から、俺は、お前の従者みたいなもんなんだろ? ――だから、堂々と、オーキッド子爵の息子、イオリーとして、お前のそばにいていい」  この心だけは偽りじゃないと言える。ずっと、オルフェとの学生生活を楽しみにしていた。  それが無事に叶った。 「あぁ、そうだ。安心して、私の隣にいればいいよ」  イオリーは、ベッドを振り返ると、オルフェに向けて精一杯笑ってみせた。  三年後、卒業式の日、イオリーは、オルフェの結婚の報告に泣いてしまうかもしれない。けれど、それは親友の幸せを祝う、喜びの涙のはずだ。 「な、食堂、行こうぜ、オル! お腹すいたなぁ」  イオリーは制服に着替えると、オルフェの手を引いて校舎に急いだ。  校舎の地下食堂でオルフェと並んで朝食を食べていると、とにかく周囲の視線を集めた。学校の制服は詰襟のシャツにローブだが、誓約魔法の痣までは隠せない。  イオリーはそれらの好奇の視線を気にしていなかったが、食事の間オルフェから、ずっと、気遣いの視線を向けられ、そわそわして落ち着かなかった。その優しく甘い瞳に、誰よりも愛されていると勘違いしそうになる。  たとえ愛されたとしても、期間限定の、ただの餌に過ぎないのに。  予鈴の鐘が鳴り、教室に入ったときのイオリーに向けられた視線は、食堂の比ではなかった。  誓約痕の効果か、前日のような悪魔を見るような視線はなくなっている。  そういえば医務室へ行った後の教室の状況を知らなかった。確か、イオリーが寝ている間にオルフェは教室に戻っていた。イオリーについて、何かクラスメイトたちと話はしたのだろうか。  昨日はオルフェと離れて座っていたが、今日からはオルフェの隣に座れる。そう思って足取りも軽くオルフェの後ろをついて歩いたが、ふと、前方の席に昨日イオリーを攻撃した生徒がいないと気づいた。  もしかして謹慎処分だろうかと一瞬頭に浮かんだが、貴族ばかりの学校である以上、彼もそれなりに名の通った家柄だろうし、厳しい処分が下されているとは思えなかった。  オルフェに続いて教科書の束を机に置き席につくと、隣のオルフェに小声で尋ねた。 「なぁ、オルフェ、あの、昨日の……一番前に座っていた、えっと、そう……キース、だ。あの子って休みか? あのあと具合が悪くなったとか。大丈夫かな?」  近代魔法のコードを使い暴走させてしまった。反動で怪我をした可能性もある。 「あぁ、彼は退学だ」 「えっ」  イオリーは教室に響くような声を出して席を立った。どうりでイオリーを見る視線が奇妙なわけだ。きっとオルフェは、イオリーを従者ではなく、対等な友人と周囲に伝えたのだろう。  イオリーに対して無礼を働いたら、自分たちも退学になるとクラスメイトは戦々恐々としている。入学初日にイオリーを田舎者だ平民だと罵っていた彼らが、小さくなっているのがその証だった。 (いや、違うだろう、何、やってんだよ……オル)  イオリーはクラスメイトに罰など望んでいない。オルフェがイオリーを友人として尊重したい気持ちがある以上に、イオリーにも曲げられないルールがあった。  そのためなら魔法貴族としての地位や名誉など簡単に捨てられる。事実、イオリーはこの学校で学ぶために一度、家の名を捨てた。そして、今は学生という身分を失いたくないために、再び家の名を名乗ると決め、オルフェに服従の魔法をかけてもらった。  学ぶ機会は、イオリーにとって何物にも代え難い最優先事項だ。  きっとオルフェにはイオリーの行動原理が理解できないだろう。  神聖な学びや、生徒の学びを妨げる行為だけは許したくない。誰もが自由に知識を得られる世界を、イオリーは幸福だと考えるから。 「当然だ、君に怪我をさせたのだから」 「オル……そんなの、ダメだ」 「なぜ? 君は、私の友人だろう」  それは有無を言わせずと言った態度だった。 (違う、これじゃ、今までと同じだ)  オルフェのその言葉で、イオリーが、この場で「貴族」としてオルフェと対等な関係になっているのだと理解した。  オルフェに友人と認められているのに、イオリーは少しも嬉しくない。 (仕方ない、のかな……でも)  イオリーは、どうしても、この関係を受け入れられなかった。  またオルフェは悲しい目をするかもしれない。入学式で、冗談でも他人行儀な呼び方をして傷ついていたから。  けれど、ここでイオリーが示さないと、クラスメイトたちも不安なままで、平穏な学校生活が送れないだろう。  イオリーは席を立ち、長いローブの裾を、マントのように払った。そして、オルフェの前で片膝をつく。 「ッ、イオリー」  これが教室でのイオリーの正しい姿で、自分たちの正しい関係だから。別に田舎者でも、魔法貴族としての振る舞いができないわけじゃない。オルフェに対して、やりたくなかっただけだ。  イオリーだってオルフェとは対等な友人関係を築きたい。気の置けない仲だと、周囲に見せつけられたらどんなに嬉しいか。  けれど、公私は分けるべきだ。  オルフェは最初からイオリーに対してそうしていた。それに対して、イオリーは、いつまでも子供で、わがままで、甘えただった。  トレニア先生が教えてくれた通り、いつまでも大きな子供みたいに駄々を捏ねてはいけない。  欲しいものがあるのなら、それにふさわしい方法で望めばいい。  オルフェが対等な友人として歩み寄ってくれたのは、飛び上がるくらいに嬉しかった。けれど、分不相応だ。ここでイオリーは、彼に甘えるわけにはいけなかった。 「――恐れながら、アルメリア様。彼は望んでセラフェンの魔法学校に入学した。どんな理由であれ、一度の過ちだけで簡単に教育の機会を奪ってはいけない。どうか、考え直しいただけないでしょうか」  自分を傷つけた人間の退学を喜んでいないイオリーを見て、クラスメイトは信じられない様子だった。  彼らに貴族としての善悪があるように、イオリーの中にも善悪があった。 (だって、嫌じゃん。俺だったら、そんなことされたら、一生恨むし、死んだあと化けて出る)  元々は、ちょっと、気に入らないイオリーをからかいたかっただけで、怪我をさせるつもりなんてなかっただろう。  結果的にイオリーは怪我をしたが、それはオルフェを守りたかったからで、彼には関係ないことだ。一度の失敗程度で、全ての学びの機会を失うなど、決してあってはいけない。  それに本当はイオリーの方が、この学校で学ぶ権利がないトラブルの種だ。  それを、わがままで許してもらっている。クラスメイトの自由に学ぶ権利を犯しているのは、イオリーの方だ。きっと自分が入学しなければ、彼らも最初から平穏な学校生活を送れただろう。 「……隣のクラスに入ってもらう。それ以上は譲歩できない」  頭の上から、くぐもった声が降ってくる。どんな顔をしてるかなんて、顔をあげなくても分かった。  それと同時に、教室に一限目の担当教諭が入ってくる。  イオリーは床から立ちあがり、オルフェの隣の席に座った。そして机の下で、オルフェの右手に左手を重ねた。 (分かった、それでいいよ。ありがとう、オルフェ。ごめんね)  イオリーが魔法を使い、心の内を伝えると、オルフェはイオリーの左手を握り返してくれた。  これで、やっと平穏な学校生活が始まったのだと思った。
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