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魔法貴族のプライド
誰よりも早く進路を決めたイオリーを、学校の誰も不思議に思わなかった。
当時、オルフェ以外に友人はいなかったし、自他とも認める本の虫で、放課後も図書館に引きこもって魔法の研究ばかりしていた。飛び級も卒業も「あの、イオリー・オーキッドなら」と自然な流れで納得された。
魔法薬学のミーリア先生も、イオリーが助手を申し出たら二つ返事で了承してくれた。住む場所だって寮の管理人をすると言ったら、今の物置部屋を、そのまま使わせてもらえた。
学校の外で古代魔法使いに対する迫害があったとしても、公ではアルメリア家に仕える人間と認識されている。たとえ両親が、どんな不遇にあっても、彼は気にもしない。イオリー・オーキッドは村を捨てて近代魔法学校に来たのだから、と。
学校でハンプニー村の悲劇を語る人間は誰もいなかった。古代魔法も村も、最初からなかったことになっている。
誓約の魔法とは、そういう性質のモノだった。
オルフェが貴族の傲慢さから、ハンプニーの村を奪ったと知って、許せなかった。
それは気づかないうちにイオリーの中に生まれていた、古代魔法使いとしてのプライドだった。
イオリーは自分の中に、そんな傲慢な感情があったなんて知らなかった。
自分に絶望しながら、どうしても、オルフェに一生忘れられないような傷を付けたくて、心を闇に堕とし禁術にふれた。迷いはなかった。
生徒たちが帰り、静まり返った北校舎一階。イオリーは魔法薬学研究室でテストの採点をしていた。室内は机の上のランプだけが灯り、ペンの走る音が微かに響いているだけ。
窓の外は月のない暗夜だった。
(オルフェの卒業まで、あと少し、か……)
ふと顔をあげると、完成したばかりの魔法が記された羊皮紙が目に入った。イオリーはそれを愛しげな表情を浮かべ指先でなどる。
春も近いのに、シャツの上にローブだけだと肌寒く感じた。
「オーキッド、まだ残っていたのですか」
突然、静かだった研究室の扉が開き、イオリーは驚いて肩を震わせた。イオリーは慌てて机の上にあった羊皮紙をポケットの中に押し込んで隠す。
「わーびっくりした、トレニア先生。お疲れ様です」
「驚かせてすみませんね。灯がついていたので」
「うん。採点の仕事残ってたから、あと少しだけ。助手でもやることいっぱいあるよね」
「昼間は学校で仕事、例の花の研究も続けているのでしょう。休んでいるのか心配だとレイモンド先生も言っていました。ちゃんと、眠れているのですか? 顔色が良くない」
トレニア先生に花、と言われて、胸が痛んだ。
あれから、ずっと白い花の形を思い出せない。夜に咲く花は、イオリーにとって、もう、必要ない魔法だった。あの頃の優しい心を忘れてしまった。
「暗いせいだよ。……今日は月も出ていないしね」
先生と生徒から同僚になったトレニア先生は、あれからイオリーのことをなにかと気にかけてくれた。
「アルメリアとは、ちゃんと話しましたか」
トレニア先生は眉間に皺を寄せ、表情には心配が浮かんでいた。イオリーは、トレニア先生の心配を払拭するように大きく頷いた。
「うん、何も変わってないよ。俺は、あいつの一番の友達で、先に卒業して先生になるのだって応援してくれた。一緒の学生生活が二年で終わっちゃったのは寂しかったけど、俺にはこれがあるしね」
イオリーは、そう言って首の誓約の徴にふれた。
「ちゃんと、誓約の魔法でオルフェと繋がってる。俺は、それだけでいい」
「オーキッド、君は、アルメリアに忘却の魔法を使っていますね」
トレニア先生は、呆れた声で言った。
「あーうん。けど別に一生じゃない。学校にいる間だけだ。俺の村のことは忘れてもらっている。法にも触れていない。だから見逃してよ先生」
それには、ため息を重ねられた。
いつかはオルフェと話さないといけないとイオリーも分かっていたが、オルフェが何か言おうとするたび、魔法で都合よく記憶を改竄していた。
「オーキッド。私は友達なら、喧嘩をすればいいと思いますよ。分かり合えなくても」
イオリーは膝の上で拳を強く握った。イオリーがオルフェと、ただの友人だったら。喧嘩をして分かり合える未来もあったかもしれない。
けれど、イオリーは分かり合えたとして、それに意味があると思えなかった。
高位貴族として、オルフェは国のあり方を一番に考えていた。イオリーは彼を高慢だと責める資格がない。自分のなかにも彼と同じように古代魔法使いのプライドがあったから。
イオリーは彼の立場を理解している。
彼より上手くできる人間はいなかったし、オルフェはイオリーを大切にしてくれている。だから、それ以上、語り合うことなどなかった。
どちらにしても卒業式の日に魔法が解けて、イオリーは全てを失うのだから。
「もう、喧嘩って、トレニア先生。そんなに子供じゃないよ。俺も、オルフェも」
「私から見ればあなたも十代の子供ですよ。もちろん、どんなに政治的な采配が素晴らしくてもアルメリアも子供ですね」
「……大人になれって言ったり、子供になれって言ったり、先生はいつも勝手だよなぁ」
「大人はみんな、そうですよ。見習ったらどうですか?」
「うーん、考えとく」
「では、私は帰りますよ。部屋の火の始末をお願いしますね」
イオリーはトレニア先生の背を見送りながら、ローブの中にある羊皮紙を握りしめていた。
*
故郷の村をなくしてから、イオリーは最後は自分の手で全て消そうと決意していた。
新月の夜、誰にも告げずに寮棟を出た。校舎の外で実際に見えているのはセラフェンの港町だ。
イオリーは学校の裏門の前に立ち、曽祖母の作った魔法の干渉を右手で取り払った。
一歩足を踏み出すと、深い森の匂いがする。右手に足下を照らすための光を集めた。
古代魔法を使うのは三年ぶりだったが、感覚は衰えていなかった。
オルフェとの誓約を破り、古代魔法を無断で使った。
背の高い木々が鬱蒼と生い茂る山道を進み、たどり着いたのは、デンシェントの死霊術が残る霊場だった。昔、中央の魔法学会で高名なネクロマンサー、バルト・ザイードの講演を聞いたことがある。
死霊と魔力の関係については懐疑的だったが面白いと思った。イオリーは初めて霊場に足を踏み入れたとき、感覚的に死霊と魔力の関係を理解した。
使えると思った。
――誓約の魔法は行使者にしか解けない。ならば、自分で解く魔法を作ればいい。できると思った。
雪のような白いオーブの光がイオリーの周りを浮遊している。
肌を撫でる冷たい感触は、風ではない。死霊の魂だ。
死霊術は古代魔法と似ていて、もっと原始的なものだ。古代魔法と違い使うのは自分の魔力ではない。死者だ。
使えば何かしらの代償があるのは容易に想像できた。
けれど、この先何が起こってもいいと思った。
イオリーが自身の掌に爪を立て、足元に血を落とす。生きている人間の魔力は彼らにとって餌だ。
古代遺跡の石板の上にイオリーの血が満ちていく。指先で、術を丁寧に記していく。自分しか知らない魔法。
「ねぇ、全部、食べていいよ。もう、いらないから」
学校に入学したとき、オルフェが付けた誓約の痕。
イオリーが命じると、首の鎖が死霊に食い尽くされていく。大切なオルフェとのつながりが痛みとともに消えていくのを感じた。
卒業式の日、これを見たオルフェは、どんな顔をするだろうか。
ずっと忘れないでいてくれるかな。
(俺のところまで、堕ちてくれるかな)
どんな理由があったとしても、学校にいる間、この繋がりはイオリーにとって、彼のそばにいるために必要なものだった。けれど、それは、もう要らない。
卒業するときオルフェに解かれるくらいなら、いっそ自分の手で。
次第に死霊がイオリーの内側に入り、自分のものではない、力が、身体に満ちていくのが、分かった。
「ッ……」
イオリーは体の力が抜けるのを感じ、石板に手をついて、その身を支えた。
痕が消えると胸にぽっかりと穴が空いたような寂しさを感じる。
誓約の魔法を消し終わると、イオリーは、そのまま転移魔法を発動させる。
すでに自分の故郷でなくなったハンプニーの村へイオリーが足を踏み入れれば、評議会の人間に気づかれる。それでも自分の目で確かめたかった。
イオリーを中心にして外に向かって木々が大きく揺れる。
――ハンプニーの村へ。
心の中で唱えたときだった。
刹那。剣がイオリーの足元に刺さった。
「……私から、逃げられると思ったの?」
「なん、で、オルフェ」
振り返ると制服姿のオルフェが、イオリーの足下に刺さったレイピアを抜き去るところだった。激しい風が吹き荒れるなか、オルフェはイオリーの右手首を強く握っている。
古代魔法を使えば、オルフェに気付かれる。気付かれる前に、発動すればいいとたかをくくっていた。
この日の計画が悟られないよう、変わらずにオルフェとは身体を重ねていた。だが、そのせいでオルフェは常に体に魔力が満ちている状態だった。
魔法で記憶を奪い、巧妙に隠していたのに、イオリーの微かな魔力変動に気づかれてしまった。
イオリーは思わず奥歯を噛む。
「一人では行かせない。イオリー」
目の前が一瞬の砂嵐になったあと、イオリーは、三年ぶりに故郷の森の中に立っていた。
闇の向こう、木々の隙間から自分の生まれ育った村が見える。この暗い道も何度となく、明かりを照らして村の人と歩いた。大好きだった泉も、今は欠けた月を照らし、静かにそこに残っている。
曽祖母との優しい思い出が残る森が、変わらずあったことで、余計に誰もいない村に胸が痛んだ。
ハンプニーの領地が奪われたと聞いたとき、想像はしていた。
そこにあったはずの家々は焼き払われ、イオリーの家も跡形もなく消えている。
この光景を目に焼き付ければ、きっと自分のオルフェへの思いは断ち切れると思った。
無惨な村を確認した次の瞬間だった。
イオリーは、その場で膝をつき口を押さえる。ごぼごぼと音を立て口からは血が溢れた。
何らかの反動は予想はしていたが、体のどこにも力が入らない。
死霊の禁術に触れた報いだった。四肢の自由を奪うほどの血が溢れ出ているのに、体は熱く自身の魔力が尽きる気配はなかった。このまま醜く屍のまま生き続けるのだと思った。
情欲に狂い、オルフェの幸せを一番に考えられなかった。
自分にふさわしい最後だと思った。
「オルフェ、離して」
オルフェは、変わらずイオリーの手を握ったままだった。互いに膝をついて向かいオルフェはイオリーをまっすぐに見つめている。
「離さない」
「ッ、離せっ」
「絶対に、離さないよ。イオリー」
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