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「ペンギンがみたいとよ」
幼なじみの海咲は唐突につぶやくように告げると、僕の顔をじっと見つめていた。
海咲の大きな目が期待するかのように、僕に訴えかけてきている。左右に束ねた長い髪の毛が、彼女が動くたびに揺れていた。
明るい太陽のような笑顔は、たぶん見る人を惹きつけずにはいられないだろう。
薄手になった夏服のセーラー服が、彼女の笑顔を引き立てていると思う。
教室の中にはもう他には誰も残っていない。それもそうだ。明日からは夏休み。高校に入ってから二度目の夏休みだ。みんなそれぞれ用事があるのだろう。ほとんど急ぐように帰ってしまった。
もっとも僕には部活があるから、終業式の後といえど帰宅することはない。
そう。部活があるのだ。
「えっと、いちおう僕は部活があるんだけど」
「碧一人しか部員おらんやん?」
僕の言葉を先回りするように辛辣な事実を突きつけてくる。
「いちおうそれでも伝統ある図書部なんだよね」
僕が所属している図書部は、学校創立の時から存在している長い歴史を持つ部活動だ。ただ今どきは流行らないのか、先輩達が卒業してからはもう僕一人しか残っていない。
それでも廃部にならないのは、伝統ある部活であることに加えて、部費が割り当てられていないこともあるだろう。要はあってもなくても大勢に関係しないから、存在だけは認められているということだ。
「今日部活しないと碧以外の誰か困ると?」
「……困らないけど」
「文化祭の出し物に間に合わんとか?」
「……展示の予定は特にない」
「ならペンギンをみにいくことに、他に問題あると?」
「……特にない」
「じゃ、よかやん。いこっ」
「……えっと明日じゃダメなの?」
「うん。今日じゃなきゃだめやんね。もう見られなくなっちゃうけん」
海咲の言葉に首をひねる。
ペンギンが見たいということは、マリンワールド海の中道水族館に行くのだろうけど、もしかして何か今日までの展示とかやっていただろうか。確かにそれなら今日でなければいけないだろう。
「うちと一緒にペンギンみにいってくれんと?」
「……うーん」
海咲の願いを否定する理由はすでに無くなってしまった。
そして正直、海咲と一緒に遊びにいくことに、どこかでうきうきとしている自分を否定できない。仕方ない。予定変更して部活は今日はお休みだ。
「わかったよ。いこう」
僕が答えると、海咲の顔がぱっと明るく変わる。
「よしよし。それでこそ、うちの碧やね。じゃ、いこっ。いまから行けば、まだそこそこ見られると思うし」
海咲は楽しそうに告げると、すぐに教室の外へと向かっていく。
逆らえないな、と思う。
でも仮に部員が僕一人でなくて、文化祭の出し物があって、僕がいなくなったら誰かが困ったのだとしても。たぶん結局は僕は海咲と一緒にペンギンを見に行ったのだろう。
だって僕は海咲のことが好きだから。ずっと長い間片思いを続けている彼女のためなら、きっと何でもしてあげたいと願っていただろう。だから僕は息を深く吐き出しながらも、一緒にいられることに胸を弾ませていた。
マリンワールドはこの街からは、それほど遠くない。電車にのれば一時すぎには着くと思う。ちょっとお腹はすくけど、途中で何か買えばいいかなと思う。
電車の中でも碧はずっとご機嫌で、謎のペンギンの歌を歌ったりしていた。たまたま車両に人がいなくて良かったとは思う。
「海咲ってそんなにペンギン好きだったっけ?」
「うん。知らんかった? うちペンギンやったとよ」
「は?」
突然の言葉に思わず聞き返す。
しかし海咲は律儀にそのままの言葉を繰り返した。
「うちペンギンやったとよ」
「君はペンギンだったの?」
「そう。ぺんぺんぺーん。ぺんぎんさん。可愛い可愛いぺんぎんさーん」
相変わらず謎の歌を歌っていた。たぶんいま気分で作ったのだろう。
「知らなかったよ。ずっと人間だと思ってたよ」
呆れた声で告げる。もちろん海咲がペンギンだとは思っていない。
海咲が訳がわからないことを言い始めるのは、今日に始まったことではないけれど、だいぶん飛ばしているなと思う。
でも、たぶん僕はそんな海咲が好きなのだ。だから海咲の言うことを否定できないし、つきあってしまう。
「ペンギンってさ、鳥なのに空を飛べないんやけど。知っとった?」
「そりゃ知っているけど」
「鳥なのに飛べないって、どんな気分なんやろうね。悲しいとかな」
「ペンギンは海に住んでるから、飛べなくてもいいんじゃない?」
「でも、ペンギンだって本当は空を飛びたいって願っとうかもしれんやん」
急に哲学っぽいことを言い始める。海咲が考えていることがよくわからない。
いやペンギンは別に飛べないのが普通だし、代わりに泳ぐのは得意なんだから、特に何も考えていないんじゃないだろうかとは思う。でも海咲はそこに何かを感じているのだろうか。
「つまり海咲はペンギンだし、ペンギンは本当は空を飛びたいのだから、海咲は空を飛びたいってこと?」
とりあえず話をまとめてみる。
でも海咲はその言葉にはいともいいえとも答えずに、いつの間にか電車の外を見つめていた。
「あ、もう雁ノ巣についたと。次の駅で降りるけんね」
香椎で乗り換えてから、ずっと話していたからか、本当にあっという間だった。
「あ、雁ノ巣っていえばレクリエーションセンターでは、アビスパ福岡の練習場があるけんね。一回いってみたかったっちゃけど、結局ぜんぜんいけんかったよ」
「海咲って、アビスパ好きだったっけ?」
アビスパ福岡は地元のJリーグチームだ。とはいえ、それほど普段僕達の会話に出てくることはない。プロ野球のホークスの方は、それなりに話題になるけれど、いかんせん僕はどちらもよく知らないのが正直なところだ。
「特には。でもせっかく地元にあるけん、一度くらいいってみてもよかやん」
「まぁ、そんなものかな。僕は興味ないけど」
「去年、なんとかカップで優勝してたけん、けっこう人気でたっちゃなかかな」
「なんとかカップってなんだろ」
「なんとかカップやね」
「なんとかカップか」
「なんとかカップやん」
「まぁ、気になるなら、こんど行ってみたら?」
「んー。そやね」
気のない返事にたぶんこれは行かないなと思いながらも、二人で会話を続けていた。
くだらない会話をしているうちに、すぐに海の中道駅に到着していた。
五分ほど歩くと、すぐに大きな水族館に到着する。福岡市民なら、きっと一度はいったことがあるだろう。
「チケットは一人二千二百円やんね」
「意外とけっこう高いなぁ。持ってたかな……」
「ふふ。でも、ここになんとチケットが二枚あるっちゃん」
「用意がいい」
「今日はペンギン見る気まんまんやったけん。ちゃんと碧の分も用意しとったとよ」
「そっか。じゃあその分は後で払うよ」
「よかよか。だって、これもらいもんやけん。タダやん」
「それならありがたくもらっとく。ありがとね」
「うちが誘ったんやけん。気にせんといて」
にこやかに笑う海咲に、今日一緒にきてよかったなと思う。
もちろんチケットをもらえたからではなくて、海咲が笑顔でいてくれたら、それが何よりも嬉しい。
僕と海咲は小さな頃からこんな風にずっと仲良くやってきた。それだけに同性の友達とあまり変わらない感覚でいられるけれど、僕はそれ以上の感情を抱いている。
海咲がどう思っているのかはわからない。海咲は本当に友達としてしか見ていないかもしれない。
それでもこうして二人で出かけることも多いから、もしかしたら少しくらいは海咲も僕のことを好きだと思ってくれているかもしれない。
ただ二人のどちらともつかない関係も決して嫌では無かった。
こうして海咲を独り占めしている時間だけは、僕達はつながっているような気がしていた。僕の勘違いかもしれないけど。
「いこいこ」
海咲の声に、僕もすぐ後に続く。
大きな水槽は半分だけトンネルのようになっていて、上空から光が射し込んできていた。その中を多数の魚達が泳いでいる。
青い世界が僕達二人を包んでいる。
夏休みに入ったとはいえ、今日は終業式の日で平日だ。まだそこまでお客が多い訳でも無かった。
だから僕達はそこでじっと二人で水槽を見つめていた。
電車の中ではあれだけはしゃいでいた海咲も、ほとんど何も喋らなかった。ペンギンではないからかもしれないけど、ただ静かに水槽を見つめていた。
そんな海咲の横顔は、どこかそのまま海の中に吸い込まれてしまいそうで、なぜか胸がきゅっと締め付けられるような気がしていた。
「すごく綺麗だね」
「うん。ばりすごか。神秘的やね」
僕のつぶやきに、海咲が答える。
この時間はまるで僕と海咲の二人しかいないかのようにも感じる。
いつまでも、この時間が続けばいのに。そう思わずにはいられなかった。
いくつかの水槽を回って、最後にお目当てのかいじゅうアイランド。ペンギンの丘へとたどり着く。
「ペンギンやん。ああ。もう。ばりかわいか」
「ケープペンギンだって。けっこういっぱいいるんだね」
ペンギン達が泳いだり、ぺたぺた歩いている姿が見える。
「うち、ようペンギンに似とうっていわるんよ」
「あー。確かに海咲はペンギンっぽいかも」
それで自分はペンギンって言っていたのか。ちまちま歩く姿は確かに似てるような気もする。
それにぺたんとして平たい体型的にも、ちょっと似てるかもしれない。ちらりと海咲の方へと視線を送る。
「……いま、胸ん方ばみんかった?」
「まったくもってそのようなことはございません」
「ぺちゃぱい寸胴な辺りが確かに似とうとか思っとったちゃないと?」
するどい。そこまでではないけど、ちょっとばかり思いました。でもそんなこと認めたら、後が怖いので何とかごまかさないと。
「いや、まったくもってそのようなことはございません」
「もー、碧のばかばかばか。いやらしか」
ぺしぺしと頭をはたかれていた。もちろんまったくごまかしきれてなかった。
こうして叩かれていると痛くはないけど、ちょっと悪いことをしたような気がする。
でもこんな会話もどこか楽しくて、僕は叩かれながらも笑っていたと思う。
それから海咲の機嫌もすぐに治って、もう今はペンギンをじっと見つめていた。
「ペンギンは泳ぎが上手かね」
「うん。そうだね」
「歩く姿はばり可愛か」
「確かに可愛い」
「でもさ、ペンギンは空は飛べんとよ」
「まぁ、そうだね」
「もし空を飛ばなかいかんときは、どげんすっとやろ」
また唐突に哲学的なことを言い出していた。何かペンギンに深い意図を感じているのだろうか。
とりあえず首をひねって自分がもし出来ないことをしなければいけなくなったら、と考えてみる。
「ペンギンのことは、わからないけど。もしそうしなきゃいけないんやったら、空を飛ぼうとがんばるんじゃないかな」
目の前で必死でエサを狙うペンギンの姿をみて、なんとなくそう思う。
「そっか。そっかー」
大した答えをした訳では無かったけれど、海咲は何か納得したようでそのまま何かを考え始めていた。
「うんっ。決めた。とりあえず」
「とりあえず?」
「ペンギンは可愛いということやね」
「……なるほど?」
よくわからない。海咲はいつも突拍子もない話をするが、これはほとんど理解できなかった。
ペンギンは確かに可愛いとは思うけれど、今の話とどう関係するのだろうか。それとも実は特に意味はなかったのだろうか。
ただそんな時間も楽しくて、僕はひとまずうなずいていた。
しばらくの間は二人でペンギンを眺めていたが、やがて時間も過ぎていく。
「まだ見ていたいけど、もうこんな時間やね。じゃ、そろそろいこっか」
いつの間にか日が暮れ始めていた。確かにあまり遅い時間になる訳にもいかない。
「そうだね。帰ろう」
海咲と僕は帰りの電車の中で、水族館でみたお魚が美味しそうだったとか、この辺にも意外と知らない魚がいるんやねとか、ラッコやイルカがすごく可愛かとか、楽しく話を続けていた。でも不思議とペンギンについては海咲は何も言わなかった。
あっと言う間に最寄りの駅までたどり着く。すっきり日も暮れて、辺りはかなり暗い。
駅からは僕達の家の方向が違う。本来であればこのまま別れを告げるべきなんだとは思う。
それでも何か離れづらいものを感じて、僕は別れの挨拶が出来なかった。
もしかしたら海咲もそうだったのかもしれない。
「あのさ」
「あのね」
二人の声が重なる。
同時に僕も海咲も黙り込んでしまう。それでも静かな時間に耐えられなくて、もういちど声を張り上げる。
「えっと」
「そのさ」
もういちど二人の声が重なる。顔を見合わせて、それから少しだけうつむく。
少し頬が赤くなっているような気がして、胸の中が強く鼓動していた。
僕はやっぱり海咲が好きなんだと思う。こうして一緒にいるだけで、幸せだと思った。だけど、二人で一緒に夏休みを過ごせたのなら、きっともっと楽しい。
だから僕はずっと抱えていた気持ちを伝えてみよう、伝えたいと思う。
告白、しようと思った。
「じゃあ海咲から先に」
「ううん。碧からいいよ」
また同じように二人で譲り合ってしまう。
でももしも海咲に断られてしまったら、そのあとに話はしづらくなってしまう。だから海咲に先に言ってもらいたかった。
けどもしかしたら海咲も同じようなことを考えていたのかもしれない。僕達は顔を見合わせて、ただうつむいていただけだった。
少し時間が流れたと思う。
先に口火を切ったのは、海咲の方だった。
「じゃあ、うちから先に言うね」
海咲は僕の方をまっすぐに見つめていた。
どきどきと胸の鼓動が激しく聞こえてきて、その音が海咲にも聞こえているんじゃないかと心配になる。
海咲は何を言うのだろうか。もしかして僕と同じように、告白しようとしていたのだろうか。
「うちね。手術することになったと」
だけど海咲が告げたのは、僕が想像していたものと、全く違う話だった。
「しゅ、手術?」
「うん。手術」
「え、いつ!?」
「明後日。それで明日には入院すると」
「え、明後日!? そんな急に!?」
「うん。ずっとだまっとってごめん。いろいろ検査したりしとったっちゃけど、先週わかって。それで少しでも早くしたほうがいいって言われたんだけど、学校が終わるまでまってもらっとったと」
海咲はいちど僕から視線を外す。
それから振り返って、僕に背を向けていた。
僕に今の顔を見せたくなかったのだろうか。海咲はどんな表情をしているのだろうか。わからない。
でもその背中の震えが、見えなくても物語っていた。
「なんの……病気なの……?」
訊いて良かっただろうか。
大きな病気なのだろうか。それだけ急に入院と手術をするなんていうのは、かなり重たい病気なのだろう。本当は訊かない方がいいのかもしれない。
でも訊かずにはいられなかった。海咲のことを知りたかった。
「ガンなんだって」
「……え……?」
ガンといえばもっと歳をとった人がかかる病気じゃないだろうか。僕達の年代でかかっている人なんて訊いたことがなかった。
「私くらいの歳の子がかかるのは、一万人に一人やって。若年性のガンは進行が早いらしくてさ、すぐにでも治療をしなきゃいけんって。だからまずは手術して腫瘍を取り除かんといけんとやって」
背を向けたまま海咲はつぶやくようにして答える。
海咲がどんな気持ちでいるのか、僕には想像することしか出来ない。
でも僕には全く彼女の気持ちがわからなかった。
僕達はまだ若くて、未来が溢れていて、まだまだこれから先が長いはずなのに。病気になってしまった海咲の気持ちなんて、僕にわかるはずもなかった。
想像してみた気持ちは、痛いとか、気持ち悪いとか、ぼんやりとしたものばかりだ。僕には何も理解が出来なかった。
海咲の背はまだ震えている。
どんな気持ちで今日を一日過ごしたのだろうか。今にして思えばペンギンを見に行くのが今日じゃなきゃいけないのは、明日から入院するからなのだろう。
海咲が辛い思いをしていることに気がつかなかったなんて、僕はなんて鈍いのだと自分を責めずにはいられなかった。
「このまま放置しとったら、近いうちに死んでしまうかもって言われたと。手術は難しくないみたいだけど、もしもガンが他の場所に漏れていたら、再発の可能性も高かって。でも手術してみんとわからんって話で、もしそげんなったら、出来ることはもう少ないって。だから、だからさ。今日はどげんしても碧と一緒に過ごしたかったと」
海咲はまだ背を向けたままだ。だけど海咲が泣いているのは、僕には見なくてもわかった。
「うちさ、まだ碧と一緒にいたかよ。碧と笑いたい。ずっと一緒におってくれた、碧と離れたくなかよ。でも、怖い。怖かよ。もう碧と二度と会えないんじゃ無いかって、怖かとよ」
「海咲……!」
僕は思わず海咲を背中から抱きしめていた。
何と言っていいかわからなかった。でも海咲の震えを止めてあげたかった。もう泣いてほしくなかった。
だけど僕に出来たのはそれだけだった。
「ペンギンはさ、空を飛べないやん。なのに急に空を飛べって言われても、無理やけん。うち、どうしたらいいかわからんかったとよ。でも先生とお母さんとで、話はどんどん先に進んでいくけん、うち、何もわからないままで、怖かった。明日にでも入院をって言われて、それでやっと一学期が終わるまであと一週間やけん、そこまでは学校にいかせてって。先生に頼んで。それでそれで」
泣いている海咲を僕はぎゅっと強く抱きしめる。
「大丈夫。大丈夫だよ。僕がついてる。僕とずっと一緒にいるよ。何が出来るかわからないけど、でも僕が一緒にいるから」
ペンギンの話。なんで急に空を飛ぶなんて話をしたのかわからなかった。
でもやっといま理解していた。海咲はペンギンに自分を重ねていたのだろう。空を飛べない鳥が、急に飛ばなきゃいけなくなった。そのことに恐れを抱いていたのだろう。
背中から抱きしめていた手の上に海咲の手が重なる。海咲の手が震えているのが、はっきりとわかる。
「うん……」
海咲は力なくうなずく。
海咲にだって僕が何も出来ないことなんてわかっているだろう。それでも少しでも海咲のために出来ることがあるなら、何でもしてあげたいと思う。
でも何をすればいいのかはわからない。だからこうして抱きしめることしか出来なかった。
「ねぇ……碧」
「うん。なに」
「さっきさ、碧は何か言いかけてたやん。うちに何を言おうとしとったと?」
「え……うんと」
海咲の問いに、僕は少し言いよどむ。このタイミングで告げてもいいのだろうか。
「ね。お願いやけん。言って。言ってほしかと。いま言って欲しいんよ」
でも海咲は僕のそんな気持ちを知ってか知らずか、僕に言葉をうながしていた。
海咲は僕が何を告げようとしていたのかは、もうわかっていたかもしれない。もしかしたら海咲は、僕の言葉をずっと待っていたのかもしれない。
ずっと告白できないでいた僕の言葉を、ただ待ち続けていたのかもしれない。
でも空を飛ばなきゃいけなくなったペンギンには、もう後がなくなって、待っていられなくなったのかもしれない。
それが海咲の力になるのなら。僕は息を大きく吸い込んで、ゆっくりと告げる。
「僕は、海咲のことが好きだ。ずっと好きだった。だから、僕とつきあってほしい」
海咲を抱きしめたまま。海咲の顔が見えないまま。僕は海咲にはっきりと告げる。
「うん……うん……。うちも、うちも碧が好き。大好き。誰よりも世界で一番好いとうと」
海咲の手に力がこもる。
「でも、うち。空を飛べないかもしれんよ。うちは、このまま死んでしまうかもしれんけん」
「それならなおさらだよ。僕は海咲が好きなんだ。だから一緒にがんばりたい。そうならないように、僕が少しでも力になる」
「うん……」
海咲の手に再び力がこもる。
僕の腕の上に、いくつもの海咲の涙がこぼれていく。
「……ありがと。碧。大好き」
だけど碧の手の震えが止まっていた。
海咲のぬくもりが、僕に伝わってくる。
少しでも海咲の力になれただろうか。
少しでも海咲が空を飛べるように出来ただろうか。
わからない。それでも僕は海咲とずっと一緒にいたかった。これまでも、これからも。
「ね。碧」
海咲の手が僕の手をとる。そして導くようにして、僕の手を自分の胸の方へと引き寄せていく。
「触って、ほしい」
突然の言葉に何が起きているのかわからなかった。
海咲の手が僕の手を海咲の左胸へと触れさせる。
その小さな膨らみは、でも柔らかくて、確かにそこに彼女の印がある。
ペンギンみたいに寸胴だなんて思っていたけれど、でも小さくてもそこに確かに海咲の胸が感じられた。
「な、なんで。どうしたの、海咲!?」
でも突然のことに僕は好きな人の胸に触れられた嬉しさよりも、驚きの方がずっと強かった。
海咲はどちらかといえば、性的なことは苦手で、何もなくいきなりこんなことをするようなタイプじゃない。だから僕は戸惑いの方が強くて、何が起きているのか理解することは出来なかった。
「確かにあるよね。うちの胸。まだちゃんとあるよね」
でも海咲は何かを訴えるように告げる。
僕の心臓がばくばくと脈打つ。いま確かに海咲の胸に触れている。
「うちね。乳ガンなんよ。明後日には、手術するから、もう無くなってしまうけん。だからさ、だから。その前に好きな人に触れてもらいたかった。うちんこと、覚えとってほしかったんよ」
海咲の言葉に、やっと海咲の行為の意味が理解できていた。
僕に知っていて欲しかったのだろう。
いまと違う姿になる前に。失ってしまう前に。
乳ガンの手術となれば、彼女の胸は下手をすれば無くなってしまう。そうでなくても大きくえぐれてしまうだろう。
いまのままの海咲は、もうこの瞬間にしか残らない。
だからこそ海咲は僕にその胸を触れさせていた。
消えてしまったあとも、僕の中に残るように。
だから僕はその手の中にある感触を、絶対に忘れないでいようと思う。
「大丈夫だよ。忘れない。僕が覚えている。絶対に」
「……うん。約束やけんね」
海咲は柔らかくて、暖かくて、そしてどこか苦い感触が僕の脳裏に焼き付いていく。
絶対に、忘れない。
大好きなひとのために。彼女をずっと覚えている。
僕達は、ただもうしばらくの間、触れ合ったままでいた。
静かに二人の吐息だけが、時間を告げていた。
「行ってくるけん」
海咲は僕にはっきりとした声で告げる。
病院のベッドの上で、もう海咲は泣いていなかった。
手術の前、僕は海咲の病院を訪れていた。
「うん。僕は待っているからね」
海咲の手を握って、僕は声をかける。
海咲のご両親もいたけれど、小さな頃から二人とも見知った仲でもある。だから遠慮せずに、僕は海咲の手を握っていた。
「お母さんもついてるけんね。がんばってね」
「お父さんも応援しとうばい。負けるな、海咲」
二人も同じように声をかける。
「うん。がんばる。ペンギンは空を飛べないけど、うちは絶対空を飛んでみせるけん」
ピースサインをみせて元気よく笑う。
そして海咲は手術室へと向かっていく。
手術自体はそこまで難しい手術ではないとのことで、きっと無事に戻ってくると思う。
あれから僕もいろいろと乳ガンについて調べてみた。
早いうちに見つかれば、そのあとの生存率はかなり高いらしい。海咲のがん細胞はまだそこまで大きくないらしく、比較的早い発見だったようだ。
でももしかしたら浸潤して、ガンが漏れて他の場所に転移しているかもしれない。それは手術して開いてみないと、確実なことは言えないとのことだった。手術した際にセンチネルリンパ節生検とかいう検査をして、初めてわかるらしい。
もしも湿潤していた場合には、若い年齢でのガンは非常に進行が早いとのことだった。
その時には未来はどうなるかわからない。
でも、もしもそうなったとしても、僕は絶対に諦めない。
絶対に。忘れない。
だから僕は手術が終わるのを待ち続ける。
海咲の結果が良い方向に向かうことを祈って。
手をぎゅっと握りしめる。
最後に触れたぬくもりを思い出しながら、僕はただ彼女が戻ってくるのを待ち続ける。
きっと幸せな未来があることを、ペンギンだって空を飛べるのだと信じて。
僕はただ待ち続ける。
了
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