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北アフリカ先住民族の言葉で──神の国──という意味を持つマラケシュ。
何もかも投げ捨てるよう、二人で逃げたハネムーン。
リヤドに籠る彼岸と此岸の境へ誘う鳥の鳴き声、暮れ泥む夕日に永遠を願った。
「おままごとはどうです、楽しいですか」
彼によく似た輪郭で、面差しはより硬質な印象。その彼の息子は好意のかけらも感じられない、でもくぐもったように震える、あの耳朶に残る声で言った。
元々は会員制の喫茶店であったアンティークな佇まいに、ともすると時と人の気配から意識が遠のく。
コーヒーカップを支える骨ばった手、目の前に座る彼の息子の仕草一つ一つに、思わず彼の気配を探してしまう。
もう少し歳月を重ねた彼の、落ち着いた柔らかな眼差し。
二人で出かけたマラケシュの夜の──ノイジーに震える祈るアザーン、煙立つハリーラに帳を下ろすジャマエルフナ広場。それは店先に並ぶ羊の頭部がみんな何か求めるように、一様に上を向いて口を開けているのに目を止めていた時のことだった。目に映る全てが白く染まり、音が消え、彼が庇うよう覆い被さって──
「もう一年になります。いいかげん意地を張るのもそろそろにしては。施設型マンション、ヘルパーはもう手配ついています。私の父でもあって、それなりの義務もあるのでね」
言われるだろうことは分かっていた。
けれどその言葉をそのままに、受け容れられるわけもなく、膝に置く手に力を込める。
いつぶりだろう。
ある日を境に敵意を向けてきた母に、思い違いにすぎないと、せめて表情に出さないようにと指先に力を込め、いつからか爪を皮膚に食い込ませるよう癖づいてしまっていた。
「ご本人を前にして失礼ながら、父の遺産狙いなのではないかと、親族、皆で反対していました。でも父は私たちに理解を求めないとばかりに、財産分与で皆の口を封じました。そしてその一部に貴方名義のものもあります。貴方はまだ若い、私よりも、です。もうそれでお互い、終わりにしませんか」
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