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不満に思う気持ちが先に来たから、前回よりも緊張せずにすんだのかもしれない。
「先月は本番前に楽屋に押し掛けてしまって、失礼しました。月城プロダクションの柿谷夏希です。三間さんと共演できるの、楽しみにしてました。未熟者ですが、よろしくお願いします!」
伏し目がちだったけど、先月から用意していた台詞を、最後まで淀みなく伝えることができた。
最後にペコリと頭を下げる。
しばらく待っても一向に返事がないため、恐る恐る上目遣いで顔を上げる。
先ほどの、眉間に縦皺を寄せた不機嫌そうな顔とは少し違う。僕を見下ろすその人は、物言いたげなような、あるいは返事を考えあぐねているような、小難しい顔をしていた。
一度目の人生でも、カメラが回っていないところでは必要最低限の会話しかしなかったから、予想通りと言えばそうだけど。
三間が出演していた秋ドラマの話でもして機嫌を取るべきか。あるいは、「次の稽古もよろしくお願いします!」と言って、早々に退散すべきか。二つの選択肢の間で頭を悩ませていたら。
小難しい顔が、くっ、と片方の口角だけ上げる。口元は笑っているのに目は笑っていない、不敵な笑みだった。
続いて、右手がこちらへ伸びてくる。
「三間晴仁だ。よろしく」
予想外の行動に、僕は思わずぽかんと口を開けて、その手をまじまじと見つめてしまっていた。稲垣から「夏希」と耳元で囁かれ、腕を肘で小突かれて、三間が握手をしようとしているのだと遅れて気がついた。
慌ててコーデュロイパンツで掌をゴシゴシ擦り、恐る恐るその手を握る。
同じ男同士なのに、自身の手よりも一回り大きい。それに節ばっていて、少しあたたかい。
そう言えば。今でこそ人気俳優だが、三間も大学生のときにこの業界に入り、駆け出しの頃は仕事がないから夜間工事のアルバイトをしていたと言っていた。だから当時は、掌にタコができて、もっとゴツゴツしていたと。
その話を聞いたのは、一度目の人生の発情期のときだ。
何度か精を放ち欲情の荒波が少し楽になった頃。セックスの合間のクールダウンのタイミングでそんなとりとめもない会話をしたことを、朧げにだが覚えている。
繋がった手に、キュッと軽く力を込められる。
シーツを握りしめる手に掌を重ねられた瞬間の、もしかしたら、今だけは少しは僕のことを愛おしく思ってくれているのだろうかと勘違いしそうになった記憶が胸を掠め、自分からそっと手を離した。
「夏希と話し足りないから今から二人で二次会しようかと思ってたんすよ。よかったら、晴さんも一緒に行きません?」
稲垣の調子のよい声が気まずい空気を掻き消す。
助かったけど。僕にとってはありがた迷惑な提案だった。
「ぼ、僕は終電に間に合わなくなるといけないから、お先に失礼します。お二人でごゆっくりどうぞ。では、お時間をいただき、ありがとうございました!」
ペコリと頭を下げ、脱兎のごとく駆けだしたのは、結局は初対面のときと同じだった。
「あ、夏希! 駅まで一緒に……」
追いかけてきた声は、聞こえなかったふりをした。
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