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意識の遠いところで何か聞こえた気がして。重い瞼をゆっくりと上げた。
ぼんやりとした視界には、大きな窓を隔てて、外灯の明かりに照らされた見慣れた道路が見える。
続いて感じたのは、匂い。香水だろうか。シトラス系の爽やかな香りと、それに微かに混ざる、愛おしさと痛みを呼び覚ます匂い。つい今しがた、その匂いに包まれていたように思えて。自分が夢を見ていたのだと、遅れて理解した。
「起きたか」
声のしたほうへ顔を向けると、呆れたような三間の顔があった。見ていた夢が夢だけに、顔が熱を持ちそうになる。夜でよかった。フロントガラス越しに差し込んでくる明かりでは、顔色まではわからないだろう。
親睦会の席では三間も酒を飲まなかったらしく、トレーニングジムを出た後、車で送ってもらったんだった。その車内でいつのまにか寝てしまっていたらしい。
今は自宅アパートの前の小道に、エンジンを切った状態で車が停まっていた。
「お前、警戒してんのか気を許してんのか、よくわかんねー奴だな」
「……すみません。顔合わせとか色々あって、緊張していたので……。無事に終わって、気が緩んだんだと思います」
一番の原因は、三間と再び顔を合わせることを考えると、昨夜はろくに眠れなかったせいだが。その相手と普通に会話ができたことで、気が緩んだことは確かかもしれない。
「ナビの通りに来たけど、ここでいいんだよな? そこのアパートに住んでんのか?」
「あ、はい。こんなところまで送っていただいて、本当にすみません」
「事務所の寮とかじゃねーの?」
「うちの事務所はオメガは寮に入るのが必須ですけど、それ以外の寮は僕クラスだと入るのが難しいんです」
会社の寮はどこも都内の中心地にありセキュリティも充実しているため、オメガ以外も入れる一般の寮だと、基本的にタレントの人気のある順に部屋が埋まっていく。
高校を卒業した時点でほぼ無名だった僕は、当然、寮に入れるはずはなく、子供の頃から住んでいる市営アパートにそのまま住み続けていた。ここはここで住むには一定の条件が必要だが、オメガであることと年収が少ないことで、今のところその条件を満たしている。
「ここ、大丈夫なのか?」
「大丈夫、と言いますと?」
薄暗がりの中の顔が、一瞬、言葉に詰まったように見えた。
「セキュリティ……とか……」
壁が黒ずんだ年代物のアパートなので、言いたくなる気持ちはわかる。
「オートロックじゃないけど、お子さんのいる家庭も多いし、治安は問題ないと思いますよ」
今度は、先程よりも長い間が開いた。
「もし……、ここにオメガの人間が住んでいたとしたら……、発情期のときに匂いが洩れて、アルファやベータを引き寄せたりしないのか?」
普段は歯に衣着せぬ物言いの男が、随分と言葉を選んでいる様子だった。
隙間だらけの家だと、暗に揶揄しているわけではないことは、何となくわかる。
僕は体格からしてアルファじゃないし、チョーカーをしてないことでベータと公言しているようなものだ。オメガのフェロモンは、ベータも惑わす。仮にも芸能人の端くれだし、オメガのフェロモンに引き寄せられて犯罪まがいのことをしないか、心配してくれているのだろうか。
「今のところ気になったことはないです。オメガのいる家は、玄関に隙間テープを張ったりして対策をしてるんじゃないですか?」
実際にうちではそうしている。今のところはそれで、発情期中に不審者が訪ねてきたこともない。
「大丈夫ならいいが……。だが、この辺りはほとんど人通りがないし、夜遅くにここを歩くのはやめておいたほうがいい」
三間の方こそ、冷たいのか面倒見がいいのか、よくわからない男だ。
気遣ってくれていることはわかるので、はぁ、と曖昧な返事を返した。
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