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寝所に呼ばれて
何で俺なんだ?
皐月の少し、肌寒い夜中。戦の本陣である、寺の個室。俺、雑兵の弥次郎十八歳は、正座のまま、まんじりともせずに、襖の向こうを睨んでいた。
俺は落ち着かない気持ちで、ちらりと横に目をやる。俺の隣には、見張りの男が一人、じっと座っている。木箱や、文机がきちんと置かれているこの部屋は、もちろん、雑兵である俺の部屋ではない。
足音が聞こえた。すぐに、待っていた相手だということを直感する。歩き方が、農民とは違う。武士の歩き方だ。
襖が開き、そこに現れたのは、胴巻き姿の、端正な顔立ちの男だった。
しかし、その目には、なんの情緒も感じられない。
俺は、さっと平服した。日吉左衛門忠頼。俺の隊を取り仕切る武士であり、今日ここに、俺を呼び出した、張本人でもあった。
「――来ていたか」
忠頼は感情のない声でそう言った。俺は心の中で唾を吐く。
――けっ、なんでえ、お前が呼んだくせに。
武士は皆そうだが、忠頼はとくに、何を考えているのかわからない。
俺の横にいた忠頼の従者が、一礼して下がった。俺は、いよいよ緊張した。
この部屋で、俺と忠頼は今から、二人きり。
俺は、これから、こいつに抱かれる。
*
そもそも俺は、忠頼と殆ど話したことがない。理由は明白で、俺は雑兵で、忠頼は武士だからだ。
冷鬼、と陰で呼ばれるこの男は、あまり笑わない。しかし、無慈悲に敵兵を射る弓の手腕は、百発百中だと言われる。
昨日、俺が、自分の武具の手入れをしていると、見慣れない武士がやって来た。胴巻きを着た武士が、雑兵のもとに来ることなど、普通はない。訝しむ俺に、その侍はこう言った。
――明日、左衛門殿が、寝所にお前をお召しだ。
刹那、俺は、頭が真っ白になった。呆気にとられ、しばらく二の句が継げなかった。 寝所にお召し。つまり性の相手をしろということだ。
俺は混乱した。戦には女は連れてはいけないが、戦の合間に近隣の村から調達することはできる。だから、上級の武士ともなれば、相手にはさほど困らないはずなのだ。
ーーやっぱり腑に落ちねぇ。
昨日の出来事を思い出し、反芻している俺の前で、忠頼は胴巻を脱ぎ、枕のそばに置いた。
俺は唾を飲み込みながら、注意深く忠頼を観察する。
ーーいよいよだ。
忠頼が刀を横に置き、横たわった瞬間。
俺は、隠し持っていた短剣を懐から出した。
しかし、相手は、俺の不穏な動作を黙認してくれるような、男ではなかった。忠頼は、一瞬で俺を、うつ伏せに組み伏せた。右腕が極められ、激痛が走る。
「いでででででえっ」
悲鳴が、俺の喉から絞り出されるように沸いた。忠頼は、俺の手から、造作も無く短刀を抜き取る。
「――最初から、何か企んでいるとは思っていたが。なんのつもりだ?」
俺は、脂汗を浮かべながら笑った。すでに、猫をかぶるのも止めている。どんな理由だって、武士に刃向かえば謀反だ。痛めつけられることは決まってる。
「へへ、今さら、何を――いでででっ」
俺の腕はさらに締められる。俺は、吐き出すように叫んだ。
「そんなん、嫌だったからに決まってる!」
少しだけ、腕の痛みが緩んだ。
「では、お前は、間者、という訳ではないんだな」
「そんなんじゃねえよ。裏切って何になるんだ」
「では、なぜだ?」
「なぜかって? はっ、こっちが聞きてえよ。戦場では武士も雑兵も、命の価値は皆平等なんじゃ、なかったのかよ? なんで命令一つで、寝所に連れてこられなきゃならないんだ! 他人に思うようにされるくらいなら、死ぬほうがましだ!」
俺はもう、やけになって、まくしたてた。忠頼は何も言わずに、俺の顔を見ていた。
俺は三年前、この軍の男たちの勇猛な戦いぶりに心動かされ、軍に入った。彼らは幕府に認められた生粋の武士、というわけではなく、さる高貴な方に雇われた地方の武士―――自らの土地を武力でもって守り、統率している者たちだった。
『我らは皆同じ人間なのだから、己を磨け。そして、自分のありたいものであれ』。軍の頭である、南波殿はそう言った。農民でも何でも、鍛錬できる心と、考えられる頭があれば、褒美を取らせると、南波殿は言った。
その言葉は、村でずっと厄介者扱いされてきた俺にとって、どれほど救いだったか知れない。
忠頼は、俺が軍に入った時から、既に、五十人ほどの兵を率いていたし、射手としても一流だった。だから、俺はそんな忠頼を、密かに尊敬していた。
ーー俺が武士なら、まだ、よかった。だが俺は、雑兵だ。ならこれは、ただの遊びで、気まぐれに過ぎない。
俺は、そう分かるからこそ、下に見られたようで、やたらと口惜しかったし、余計に腹が立った。
暗闇の中、忠頼がため息をつく。
「馬鹿なことを。分かっているのか? どんな理由であろうと、ここで刃物を出せば、お前は罰せられる」
俺は、忠頼の質問には答えなかった。極められている腕を、なるべく緩めるように動きながら、逃げ道を目で探った。しかしこの体勢では逃げることなど到底無理そうだ。
忠頼の体は筋肉質で、そしてなにより技が巧かった。俺が動こうとするたびに、手首から肩の関節に、びりりと激痛が走った。
忠頼はしばらく、黙っていた。
それから、何も言わず、ふいに立ち上がる。手を極めたまま、俺を引きずるように歩かせ、衣箱の前で何かを取り出した。
それが何かは、手首の感触で、すぐにわかった。縄だ。
「何するんだっ」
忠頼は暴れようとする俺の手首足首をさっと結わく。
俺は芋虫のように這いながら、忠頼を振り向いた。黒い影は何も語ってはこない。
ぞっとした。
これから俺は、犯されて、殺される。
情けないが、背に一瞬、震えが走った。背中に汗が伝う。
「じっとしていろ」
忠頼の手が、俺の方へ伸びた。俺は目を、ぎゅうっと閉じる。
しかし、俺の予想は、大きく外れた。忠頼は俺の手につながった縄の端を、自分の手首に結びつけた。そして、俺を引きずって掻巻の前に来ると、そのまま、あっさりと横になった。
俺は、ぽかんとして、それを見ていた。それでも、しばらくは忠頼の次の行動を戦々恐々として待っていた。
――が、いくら待っても何もない。それどころか、寝息さえ聞こえ始めた。
俺はそっと忠頼の枕もとへ寄った。まだ起きない。
――どういうことだ、これは。
俺は首をひねったが、何が起きているのかは分からない。ただ、一つだけ朗報があった。
今なら、ここを逃げ出せるかもしれない。
俺は紐の結び目に、自由な方の手を伸ばした。縄に手が触れるか触れないかという、その刹那。
忠頼は、見ていたかのように、さっと俺の手を取ると、捻りあげた。俺は痛みで叫ぶ。
「起きてたのかよ?!」
「お前の気配で目が覚めるんだ。無駄なことをするな。別に、お前に手を出すつもりはない。だが今日はここにいろ。逃げ出そうとしたら、ただではおかん」
忠頼はそれだけ言うと俺の手を離し、再び寝息を立て始めた。
俺は眉根を寄せて、黙り込んだ。
ーー何なんだ。全く意味が分からない。呼び出したのに、何もしないつもりか?
俺は忠頼の言葉を信じていいのかどうかわからなかった。しかし、何度縄を外そうとしても忠頼は起きる。
仕方がないので、俺は膝を立てて座り、夜の闇の中、じっと忠頼の黒い影を睨んでいた。
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