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忠頼
俺は小さな丘の向こうへ向かって歩いていく。
夜露で湿った草原の中で立ち止まり、空を見る。 重苦しく立ち込めた灰色の雲が、この地を押し潰そうとしているようだった。
天からは、ごろごろと、地鳴りのような雷の音が聴こえている。今日の月は上弦の三日月だ。俺は頭の中で暦をめくる。もうそろそろ、葉月(新暦の九月~十月)だ。
どおりで、と俺は思った。リイリイリイリイリイ……とナツノツヅレサセの声が聞こえてくるわけだ。
――故郷に帰ったら、縁談だな。
重く湿った風が、湿った野や木々を、なぎ倒すように吹いている。
五郎兵衛の言葉が、ちくりと胸を刺した。
戦の季節は、葉月を迎える前に、終わる。なぜなら、葉月は、農民にとって、一年で一番、忙しい、稲刈りと種まきの季節だからだ。
故郷に畑と田圃を抱える、ほとんどの野武士にとって、その時期に農地を離れることなど、まずあり得ないことだ。
勿論、俺だって、戦場から離れられるのは、嬉しい。たとえ、故郷がそれほど好きではなくても。それに、動乱は収束してはいないかった。戦は、まだ続く。だから雑兵は、いったんは故郷に戻っても、また来年になったら呼び出される。
忠頼が、与助を助けた、あの日から、何かが変わるかもれないと、俺は思っていた。
だけど、そうはならなかった。忠頼はあれから、一度も俺を呼ばなかった。戦いの日々は慌ただしく過ぎていき、忠頼の顔を一度も見ずに一日が終わることだって、近頃はざらにあった。
俺は、草原の片隅で、立ち止まる。
――会いてえ。
御しきれない馬に乗って、ひたすら走っているような感覚を、ここのところ、ずっと感じている。
間抜けなもんだ、と自分でも思う。俺は忠頼のことを、何も知らない。好意を持ってくれているらしい事だけは、分かるが、それだけだ。
忠頼は、俺のことを、どう思っているのだろう、とそこまで考えて、俺はじっと足元の草を見た。
俺は武士じゃない。俺と忠頼じゃ、はじめから、身分が違いすぎる。
風がうなる音が、聴こえる。継だらけの着物が、ばたばたと、はためく。
ふと、何かが、頭上に見えた気がして、俺は天に目を遣った。
一瞬、天が、ばっと、明るく閃く。稲妻だ。
俺は駆けだした。斜面を少し登り、雨の中を凝視する。俺は、昔から、雷を見るのが、好きなのだ。
空が、また光る。
雷光が天と地を結ぶ柱のように見える。それとともに、天を裂くような激しい音が響く。音と光の合間は、段々と短くなってきている。雷雨が、近づいてきている。
その時、不意に気配を感じて、俺は振り向いた。
「誰だ」
それが誰か分かったとき、俺の体の力が、すとん、と抜けた。
「……左衛門、殿。どうして」
「陣営にいなかったから、捜しに来た」
「だから、なんで」
忠頼は突っ立ったまま、暫く黙った。
「理由がないとだめか」
俺は、胸にこみあげてくる気持ちを、必死に抑える。本当は、駆け寄りたい。でも、そんなことをしたら、忠頼には、迷惑かもしれない。
逡巡しているうちに、忠頼のほうが、俺に歩み寄ってきた。
懐から何かを取り出す。つるりと丸く、赤い実が、掌に載っていた。俺は、あっと歓声を上げた。スモモだ。
「先日、行商から買った」
大所帯で移動し、生活の糧を、地元の輸送にのみ頼っている軍にとって、行商は無くてはならない存在だ。
ただ、遊びや楽しみに飢えている兵たちにとっては、危険な存在でもある。せっかく稼いだ金を簡単に浪費してしまう兵士は、常に後を絶たないから、俺はできるだけ、寄り付かないようにしている。
俺はスモモを手の上で転がす。馥郁とした甘い匂い。幸せの象徴のような匂いだ。
「お前にやる」
そう忠頼は言った。が、俺は、眉を顰めると、じっと忠頼を見返した。
「俺は――何をすればいい」
忠頼は、静かに言った。
「返礼、という意味なら、何もしなくていい。それは贈品だ」
「そういう訳には、いかねえ」
俺は忠頼の前で、膝をついた。考えるよりさきに、体が動いていた。
「弥次郎?」
忠頼は訝しげな声で訊いた。俺は構わず話し出す。
「左衛門殿。俺は来年も軍に加勢し、武功を挙げる所存です。だからどうか――」
だから、どうか――。
その後は、言葉が継げなかった。俺は目をギュッと瞑り、その先を、一気に言った。
「来年まで、どうかご健在で」
風が段々強くなる。ぽつぽつと、大粒の雨が降ってきて、頭にあたる。
あっという間に本降りになった雨の中で、俺は頭を下げ続けた。
忠頼が、ぐいと俺の腕を引っ張り、立たせた。
「ここにいては、濡れてしまうだろう」
大粒の雨が、地をたたき、葉に弾ける。その音は、耳を弄するほどだ。忠頼の手だけが、酷く熱い。
俺たちは、大きな木の下に駆け込んだ。暗闇の中、忠頼の目が、俺を捉えた。忠頼の手が、するりと、俺の顎に触れた。俺はびくりと、体を震わす。
忠頼がはっとしたように、手を引っ込めた。俺はそれがたまらずもどかしく、思わず、忠頼の手を掴んで、頬を寄せた。
「嫌だ。話すな。触れてくれ」
俺は、掠れるような声で、懇願する。
刹那、忠頼は俺の手を急に引っ張った。忠頼はそのまま、俺を強く抱き締める。
「――触れて、いいのか」
「もう、してる、じゃねえか」
忠頼は、ふっと息を着き、体を少し揺らした。笑っているらしい。俺は驚いた。顔が見たかったが、この闇の中では無理だろう。
忠頼は俺の耳から首に、順々に口づけを落とした。俺は息を漏らす。そこだけが熱を持ったように熱い。
体が震え、立っているのが辛くて、俺は忠頼に縋るようにしがみ付いた。雨の冷気が、火照った体を冷やしていく。
忠頼が、ふいに、口づけを止めた。俺を抱きしめたまま、俺の顔を覗き込む。
「お前には故郷が――帰るところが、ある。戦場にいる必要など、本来ならば、ない」
苦しげな、声だった。俺は胸が詰まった。忠頼の言っていることは、真実だった。
自分の村。そこで、俺は、孤児で、いつも一人だった。だが、それでも、愛着がないわけではない。何より、あそこなら、生きていくことはできる。
――でも。
俺は忠頼を、真っ直ぐ見詰めた。
「俺は、あんたのことを、何も知らない。だが、信じてる。欲しい言葉は一つだ。俺に付いてこい、と言ってくれ」
忠頼は暗闇の中、じっと俺を見て、それからまた、俺を強く抱いた。
「お前は――どうしてそう――」
困ったような、呆れたようなため息が、耳元で聞こえた。
「左衛門殿、俺は本気で」
「忠頼、だ」
不意に、忠頼は俺の唇を、を口づけでふさいだ。
弥次郎はぼおっとした頭で、ひたすらに、しとどに濡れる相手の舌を貪った。唇。舌先。そして歯の裏側の、もっと奥まで侵され、息が詰まりそうになる。
――くらくらする。
雷がどこかで光った。雷鳴が、遠く向こうで、とどろく。雨が、俺たちを外部から閉ざしていた。
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