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第6話 深淵をのぞく者たち
ウツロは書棚から一冊の本を取り出した。
彼は迷ったとき、いつもこの一冊を選択する。
ボロボロになったハードカバーの哲学書。
トマス・ホッブズの「リヴァイアサン」だ。
表紙には王冠をかぶった金髪の少女が描かれている。
右手には闘争の象徴である剣を、左手には統治の象徴である錫杖を、それぞれ携えていた。
人間は自然な状態では闘争、すなわち悪へと向かうが、法という概念を導入することにより、善へと向けることができる。
そんなホッブズの思想を端的に表していた。
少女が身に纏うドレスは、喘ぎ苦しむ人間たちの集合体として表現されている。
概念による統治にはおびただしい犠牲が伴うという、ホッブズが危惧した状態の描写だった。
どこかの出版社が、若者に哲学を親しんでもらうというコンセプトで企画し、リヴァイアサンの初版に使われた挿絵を、人気のイラストレーターにアレンジさせたものである。
原文の翻訳には新進気鋭の哲学者を採用したものの、予算の都合でわずかな部数しか発行されず、売れ行き自体も芳しくはなかった。
しかしウツロにとっては特別な存在だった。
本といえばはじめにくる一冊なのである。
当たり前であれば小学校高学年くらいの年ごろのとき、本が読みたいという彼に請われ、似嵐鏡月が買い与えたものだからだ。
お師匠様が本を買ってきてくれた。
物静かなウツロが柄にもなく興奮して喜んだ。
彼は夢中になって読み耽った。
言葉は字引を借りて調べられたが、そもそもこれは哲学書である。
思想を読み解くのは幼いウツロには難しかった。
しかし読まずにはいられなかった。
世界のすべてがこの本の中につまっている。
近代から現代に至る社会システムの基礎は、このホッブズという男の頭の中で完成していた。
死と双子の、孤独な思索家の脳内で。
ウツロは前半の「人間論」を愛してやまない。
ホッブズは人間を信じなかった。
人間による統治では平和は訪れない。
だから概念を定義し、導入した。
人間ならざる概念に統治させれば、世界は平和になると考えた。
貨幣を、法律を、社会を、国家を、あるいは世界そのものを。
まるで仏を作って魂を入れるように。
魂というより亡霊。
ホッブズは死してなお、亡霊となって世界を支配しているのではないか?
世界……
ページをめくるごとに、世界が降り注いでくる。
同じ箇所でも、読むたびに景色が違って見える。
遊園地というのは、こういう感覚なのだろうか?
そう、ウツロは読書に「遊園地」を見出していた。
隠れ里から一歩も外へ出たことのない孤独な少年の心を、読書という遊園地が慰めてくれたのだ。
外の世界とはどのようなものか?
このあわれな創造主の手になる世界とは。
もし叶うのなら、いつか……
ところでこの本は、似嵐鏡月が古書店で買い求めたものだった。
本文の前後には白紙のページがそれぞれあり、そこには鉛筆である殴り書きがしてあった。
前に三行、うしろにも三行の、都合六行。
しかしその六行が、たったの六行が、ウツロの心を鷲掴みにして放さなかった。
人間とは何であるか?
何をもって人間というのか?
何が人間を人間たらしめるのか?
これが前の三行。
備忘の筆者は人間という存在について問いかけているようだ。
これがすなわち、ウツロがつね日ごろから問いかけている命題である。
俺は解答を得た
あとは実行あるのみ
俺は、人間になるのだ
こちらが後ろの三行である。
備忘の主は何かを発見したようだ。
ウツロにはこれが気になって仕方がなかった。
この筆者はいったい何者だ?
いったい何を悟ったというのだ?
そして何を起こそうというのか?
人間という存在についての問い。
少なくともこの筆者は、何かの解答を得たということである。
何なのだ?
いったい人間とは、何だというのだ?
この筆者は何者なのか?
存命なのか故人なのか。
生きているなら、会いたい。
いったい人間とは何であると結論づけたのか、問いただしたい。
このおそるべき問いかけは、ウツロの現実とガッチリと噛み合っていた。
肉親から捨てられたという出自。
その事実から発生する強烈なトラウマ。
俺は親から捨てられた。
こんなことが人間にできるはずがない。
そうだ、俺は人間じゃないんだ。
何かおぞましい、そう、毒虫のような存在なんだ。
俺はこの世に必要ない。
いらない存在なんだ。
しかし醜い毒虫だって、美しい蝶になりたい。
俺は、人間になりたい。
この問いかけに解答を見出したとき、あるいは俺は、人間になれるのではないか?
「ウツロ」
いつもの思索に耽っているウツロに、アクタは声をかけてみた。
この弟分が黙っているときは、つい心配になる。
「眠れないのか?」
「アクタこそ」
ウツロは本を開きながらも、意識はアクタのほうへ向けた。
「これから、どうなるんだろうな」
アクタがウツロに弱気をさらすのは珍しい。
それほどの衝撃を受けたということだ。
「自由、か……俺は枷と鎖のほうが楽だけどな」
「なにそれ? 何かの比喩かな?」
「お前の真似してみたんだよ」
「……変なの」
あえてとぼけたが、ウツロとてアクタの心中は察してあまりある。
つながれていようとも、俺はこの里の暮らしがいい。
願わくば、ずっと……
「自由、って何だろう……何をもって自由というのか……」
ぺしん
「いっ」
アクタは体を翻してウツロの頭を打った。
「なんだよ、アクタ」
「いらんこと考えるなっつーの」
「悪いかよ、俺は人間的生命活動の発露として……」
ぺし、ぺしっ
「いたっ、アクタ!」
「バーカ」
「うー」
今回ばかりはアクタの意趣返しもぎこちない。
彼らのやり取りには、どこか小芝居のようなむなしさがあった。
「ほら、寝るぞ」
「うん……」
互いに背を向けて横になる。
涙を隠すため。
これからどうなるのだろう?
まるで見当もつかない。
でも確かのは、お師匠様が、アクタが一緒にいてくれる。
それなら何もこわくない。
こわくなんてあるもんか。
そうだ、大丈夫だ。
大丈夫、大丈夫……
ウツロは言い聞かせるように、「大丈夫」と念じた。
羊を数えるようにしているうちに、彼は眠りへと落ちていった。
*
「ウツロ、ウツロっ」
アクタの声?
夢だろうか?
「ウツロ、起きてくれ、早くっ」
「アク、タ?」
「ウツロ、何かがここにくる。それも、すごい速さだ」
「まさか――」
アクタは畳に耳を押しつけ、振動を拾い取っている。
「『忍び足』だ。人間、それも訓練を受けたやつらだ」
「賊か?」
「わからねえ……早く、お師匠様のところへ!」
「うん、急ごう!」
すでにウツロの眠気は吹き飛んでいた。
危機の察知を鋭敏にするための訓練として、似嵐鏡月から仕込まれたものだった。
ウツロとアクタはすぐさま布団から起き上がると、われ先にと部屋の外へ出た。
(『第7話 来襲』へ続く)
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