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一
(美羽)
一
夕食の片付けをしていると、ふいに玄関のチャイムが鳴った。
美羽が玄関の戸を開けると、
「ねえ、お願いがあるの」
姉の由羽が、幼い子どもをふたり連れて顔を出した。
上の娘、三歳になる凛は、一歳を過ぎた弟の湊斗の手を繋ぎ、不安げな表情でこちらを見ている。
九月に入ったばかりだが、いまだ夏の暑さは残り、凛も湊斗も額にうっすら汗が滲んでいる。
「どうしたの急に? なにかあった?」
姉が連絡もなしに急に訪れるのは、毎度のことだ。
「日曜の夕方まで、子どもたち預かってくれない?」
「え?」
「休日はどうせ暇でしょ?」
「え? いや、そうだけど、でも」
「いいからお願い」
シングルマザーの姉は、女手一つで子どもを育てているが、なにかあるとこうして実家を頼ってくる。
「預かるのはいいけど、お姉ちゃんはどうするの?」
問うと、
「私? 私はねえ、新しい彼氏とこれから旅行に行くの」
「旅行?」
「そう。彼の都合で急に決まったの。だからお願い。子どもたちのこと」
「急にって。どこに?」
「伊豆辺りまでちょっとね」
「伊豆って……」
「彼がね、子どもたちも一緒にって言ってくれたんだけど。私が断ったの。だって、まず彼との仲を深めないとね。もしかしたら父親になるかもしれないんだし。それに、この先彼と一緒になったら、なかなか二人きりになれないでしょ。まあ、こうしてあんたに子どもたちをお願いすればいいんだけどね。だってなんたってあんた、本職だもんね」
保育士をしている美羽は、なにより子どもが好きだし、姪や甥のことも大好きだ。
預かってもいいが、急にこられて、休日になにも用事がないことを決めつけられたのが少し気にくわなかった。
現在この三LDKのマンションに住んでいるのは、母、愛子と美羽、義理の父坂上章吾だが、母は遠方で独り暮らしをしている父親の様子を見に行くため、だいたい年のほとんどはこの家にいない。今も実家に身を寄せている。
実は義理の父章吾は、美羽が中学の時、担任の先生だった。
母は美羽が三歳の時に離婚しており、ずっとシングルマザーだったのだが、美羽が思春期に入り、気難しい年頃に手を焼いた母が、クラスの役員を引き受け、担任である章吾に相談を持ちかけ、頻繁に会うようになり、次第にいつしか結ばれることとなったのだ。
密かに章吾に想いを寄せていた美羽は、大いに衝撃を受けたが、同じ屋根の下で毎日顔を合わせることが出来るということが信じられなかった。
だが今は、どんなに想おうと永遠に報われぬ想いに、日々切なさばかりが募るだけだ……。
章吾よりも大切に想う相手が現れたなら、すぐにでもこの家を出ていくつもりだが、あれから十年近くたっても、あいにくそういう男性はなかなか現れなかった。
「なんだ、どうかした?」
奥の部屋から章吾が現れた。
「あ、お父さん」
由羽は簡単に事情を説明し、「……ということなんだけど、いい?」
猫なで声を出した。
「ああ、構わないよ。凛や湊斗の顔が見られるなら、いくらでも預かるよ」
「ありがとう、お父さん。大好き」
由羽はそういうと、時計に目をやり、
「あ、いけない、じゃあ、そろそろ行くね。本当に助かる。お願いね」
念を押すと、足早に出て行った。
後姿を見送りながら、美羽が
「ふう……お姉ちゃんって相変わらずなんだから」
小さく愚痴ると、凛のほうを向いた。
凛は口を固く結んでこちらを見ている。
「凛ちゃん、ご飯食べた?」
「たべた」
「ほんと? どこで食べたの?」
「ここちゅ」
「あ、そうなんだあ。よかったね。なに食べたの?」
「えっとね、ハンバーグと、ポテトと、たくさん」
多分お子様プレートかなにかだったのだろう。
「良かったね。美味しかった?」
「おいちかった」
凛は夕食を思い出したのか、笑顔を見せた。
後ろから章吾が、
「じゃあ、風呂はどうだ? まだ入ってないだろう?」
問うと、
「おふろ、はいってない」
凛が答え、
「そうか、じゃあおじいちゃんと入るか?」
まだ四十前の若いおじいちゃんは、そう言って凛と湊斗をいざなった。
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