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数日後。
待ちに待ったクリスマスの25日は月曜日。イコール、いつもと変わらず仕事に行かなきゃならない月曜日である。悪天候による遅延を警戒し、いつもの時間より少し早い出発時刻のバスに乗り、いつもと同じ時間に職場近くのバス停に着く。朝から何となく浮足立っている街を通り抜け、職場に向かう途中で信号待ちの髙野を見つけた。
「おはよー」
「ん」
いつもなら元気に挨拶を返すのに、何だか妙に静かで覇気がない。腹でも壊したのかと首を傾げつつ、物憂げな横顔を見ていた。
「…どうしたんだよ、元気ないな。今日はチーズケーキ食いに行くんだろ?」
「それが…その」
「何かあったのか」
眼が泳いでる様子に、きっと何かがあったんだろうと確信した。それがどのような内容であっても、彼の様子を見るに嬉しい事ではなさそうだった。
「…部長が…今日の仕事終わりに飲みに行くから付き合えって」
「ほう。それで?」
「約束があるんで俺は不参加ですって言ったんだけど、カノジョできたのか?ってしつこく詮索するからさ。そう言うのコンプラ違反です、って指摘したら…もしかして安川かって」
「…何で俺だって分かるんだよ」
奴がしょげている理由がなんとなく分かった。男2人で約束までして出掛けるのを職場の上司に察知されて、気まずくなっているのだろう。提案してきたのは髙野だったけど、行く気満々だった俺も楽しみになっていたのに水を差された気分だ。
「別にそうだとしても事実だし、おまえんとこの部長には関係ないだろ?」
「そう、なんだけどさ…。俺よりも安川を選ぶのかって言われて、何も言えなかったから。なら仕事の方が好きなんだなって、残業させられることになって」
「はぁ?それパワハラじゃんか」
「部長と飲みに行くなら定時上がりだけど、それ以外に予定があるなら残った仕事やってから帰れって…、確かに俺の仕事、遅れてるから仕方なく…ごめんな」
「そっか。なら、俺も定時で上がる理由がなくなった」
「へ?」
実に驚いた顔で髙野が俺を見ている。彼は元々俺より少し背が高く、ブーツを履いているから余計に身長差がある。結果的に見下ろされる格好になったけれど、不思議と全然気にならなかった。同僚にこんな悲しげな顔をさせて、尚且つ美味いチーズケーキを食べられない恨みは、仕事にぶつけてから帰ろうと決めた。
「…ひとりにさせるかよ。約束したじゃん、ロンリーなクリスマスから卒業するんだろ?」
「うん…」
「おまえは堂々としてりゃいい。同僚なんだからどんな日だってメシくらい行くだろうが」
「そうだよな…うん、ありがとう」
「俺もちょうど年内に終わらせたい案件があるから、それを終わらせてから帰ろう。チーズケーキはまた今度になるだろうけど、今日は牛丼屋行こうぜ?楽しみは先延ばしにしたって悪くないから」
「おまえ…ホントにいいやつだ」
「あはは!よく女の子にも言われてるよ。だけどいいやつ止まりで全然モテないんだよな…」
切ないことを思い出し、深く吐いた溜息は真っ白になって消えていった。待っていた信号がようやく赤から青に切り替わり、俺と髙野は横並びになって横断歩道を歩く。頭上で髙野が何か呟いていたけれど、考え事をしていてよく聞き取れなかった。
職場に着くと従業員出口から入り、エレベーターホールに向かう。髙野は階段を使うからと、途中で違う通路を歩いて行った。顔も良くて背が高く、仕事はできるし運動もできる。俺と違ってイケメン要素がプラリネのようにぎゅっと詰まっているのに、俺との約束なんていつまでも延長して構わないのに、なんで髙野はあんな悲しい顔をしたのだろう。
その謎は職場に着いて始業してからも尚、いつまでも解明できないままだった。
× × ×
始業のチャイムが鳴り、仕事に取り掛かっても昼食の時間に至っても、高野利久の顔色は変わらず青白いままだった。上司が嫌がらせだけで残業を押し付けることなどしないと分かっており、今日まで仕事を残していた自分が悪いのだと自分自身を責めてしまう。
「…髙野係長、お疲れですか?」
「いえ!そんなことはありません」
「先週部長にアレコレ言われてましたもんね~」
「そう言えば部長、電車が停まって出勤遅くなるみたいですよ?もしかしたらそのまま休むかも…」
「えっ?なら飲み会ナシになるかな?アタシ急に予定入っちゃって~」
「何て言ったってクリスマスだもんね」
同じ部署で働く社員たちの会話を何処か遠くで聴いているようで、その内容を理解するのに暫し時間が掛かった。それならば今日わざわざ残業する必要はないのではないかと思いつつ、定時までに終わらせるように覚悟を決める。
同じ課の違う部署にいる同僚、安川朗に業務を兼ねた連絡をすべく、内線電話の受話器を取った。
× × ×
年末年始に慌てないでいいように、沢山の書類仕事を終わらせるべくパソコンに向き合う。広いフロアにはパーテーションで区切られた3つの部署が並び、営業課の経理部・推進部・企画部でそれぞれの仕事をしていた。各部の人員は20名にも満たないけれど、この時期は特に活気があった。
年末の大きなイベントに向け、パンフレットやチラシの発送準備が進む中で、うちの部署は経費や予算の収支確認にと別の意味で慌ただしい。内線電話もそこかしこで鳴っている。
「はい、経理の安川です」
『…お疲れ様です。人事の桐生です』
「お疲れ様です!お元気ですか?久しぶりですね」
『冬のインターンシップで学生さんに飲み物を提供したのですが、教育費から出していいのかと…再確認する為にお電話しました』
「ああ、それなら教育の採用区分から出して下さい。領収書と納品書、忘れないでくださいね」
『承知しました、ありがとうございます。…相変わらず、安川さんは元気ですね』
「あはは!まぁ、それが取り柄みたいなもんで!」
『体調にはくれぐれも気をつけてくださいね。それでは失礼します』
「はい、失礼します!」
思いがけない人からの内線で、なんだか急に懐かしくなる。以前この部署にいて、お世話になった先輩からの内線だった。異動してからも相変わらずローテンションだったけど、少しだけ声のトーンが高かったような気がした。いい事でもあったのだろうか。
再び鳴り出した内線電話の受話器に手を伸ばし、メモとペンを握って応対の準備をした。
「はい!経理の安川です!」
『…あ…お疲れ様、髙野です』
「ん?どうした?珍しいな」
同じフロアにいる髙野からの電話だった。いつもは直接やり取りするのに、内線を鳴らすなんて珍しい。
『あのさ、…工場から発注見積もりがメールで届いたんだけど、宛先そっちで良いんだよな』
「うん」
『なら、転送するから確認してくれ』
「承知ー」
それじゃ、と通話を切る瞬間、高野が何か言いかけた。
『…メールするから、また後で』
「ん?ああ、見とくよ」
てっきりパソコンに送られてくるメールかと思いきや、卓上に置いているスマホが小刻みに震えている。俺は何故か唐突に、甘いものが食べたくなった。
『…やっぱりチーズケーキがいい』
「奇遇だな。俺も同じこと考えてた…仕事、定時で終わらせるつもりでがんばろうぜ」
『ん』
互いの目的が合致したなら、あとは全力でやりきるだけだ。
小さい声で「よし」と気合いをいれて、再びパソコン画面と向き合った。
× × ×
「…次ので最後…次が最後」
ラスト1枚の伝票を入力し終え、パソコンの入力画面を保存する。辺りには既に帰宅した人たちのデスクが寂しそうにあるだけで、居室は閑散としていた。
結局定時は少し過ぎたけど、残業と言う程残業ではない。午後から休みになったり、早退したりと人の出入りが忙しなく、落ち着きのない半日をようやく終えることができた。
髙野から届いたスマホのメールには、うわ言のように「ニューヨークチーズケーキのうまい店を見つけた」と書かれていて、髙野が余程追い詰められていたのだろうとわかる。
パソコンの勤怠画面を呼び出し、定時より過ぎた分の時刻を残業申請する。デスクを手早く片付け、さっさと帰る準備をした。あいつの綺麗な顔が早く見たいと思うのは、チーズケーキが食べたいからだ。
「髙野、仕事終わったか…」
パーテーションの向こうにある髙野の席には案の定、奴が座っていた。でも何処か不自然だった。
かくんと上半身がデスクに倒れるのが見えて、俺は慌てて近くに寄った。穏やかな寝息が聞こえてきて、どうやら居眠りしていたようだと分かり肩の力が抜ける。
デスク上には整理された書類が置かれ、パソコン画面もスリープ状態だった。どうやら業務を無事終えたのか、ふやけた顔で寝ている。
「…おい、俺も仕事終わったぞ。チーズケーキ食いに行くんだろ」
「…ん…」
微かに動いた唇は再び寝息を繰り返した。髙野の寝顔を見るのも初めてで、付き合い自体長いけれど俺はこいつのことを半分も知らないことに気がついた。なんでこんなにも美人なのに恋人がいないのだろう。こいつの好きなタイプや、今好きな人がいるのかなんて今まで気にすることがなかった。余計な事が頭の中でぐるぐる周り、目の前にある柔らかそうな肌に触れたくなる。
すると長い睫毛が微かに動き、瞼が開かれ俺と目が合った。
「……あれ…あきら…なんで」
「っ…ね、寝惚けてないで早く帰ろうぜ、チーズケーキが待ってる」
「うん。あれ、いつの間にかおれ寝てたの…?」
「たぶんな。まぁおまえの綺麗な寝顔を拝めたから良しとしよう」
「う…んん…まだ夢見てんのかな…今なんか…」
「い、いいから!ほら、椅子から立って」
誤魔化すように言い聞かせるが、こいつの寝起きはかなり悪いことも初めて知った。髙野はぼんやりとした表情でマウスを操作し、パソコンの電源を切ると椅子から立ち上がる。だが足元はふらつき、今にも綿あめのようにフワフワと溶けてしまいそうだった。案の定、よろけてバランスを崩してしまった奴の身体を慌てて支える。本当に綿あめかと思うくらい軽く感じた。
「あぶなっ…!おい、しっかり…」
「あきらもかわいいよ」
「寝言は寝て…はぁ!?」
……何か聞いたのは気のせいだと思うことにした。
×
凄く幸せな夢を見ていたように思う。
大好きな同僚に背負われ、温かくて広い背中に身体を預けていた。おれはダイエット中なのに、なんでこいつにおんぶされているんだ?
ぼんやりと職場で何かやりとりしていたのは覚えているけど、彼が何を言っていたのかまでは思い出せなかった。
昨夜は色々な感情がぐるぐると頭の中で巡り、落ち着かなくて眠れなかった。残業しなきゃならない、あいつとケーキを食べに行けない、約束を果たせなくなる、とマイナス思考に陥って気づいたら朝の4時だった。
憂鬱な気分で出勤すると、あいつの方から挨拶された。嬉しい筈なのにロクな返答ができなくて、挙句心配までされて密かに泣きそうになった。
安川は本当にいいやつだ。
この感情が間違いなく『好き』というものなのだろうと自覚してから、ずっと近くにいるのが怖かった。LIKEなのかLOVEなのか自分では分からないけれど、いつか爆発してしまうのではないかと。
クリスマスの誘いにもあっさり乗ってくれて、自分の思い違いに蓋をするのが必死だった。
「…利久には好きな人いるのか?」
いるよ。
「それって、どんな奴なんだ」
同期入社で元気が良くて、甘いものが好きでよく笑う、いいヤツだ。
そしてそんないいヤツと、一緒にこれからチーズケーキを食べに行こうとしている。行きつけの喫茶店で出しているしっとりしたチーズがたっぷり入ったN.Yチーズケーキ。そこのマスターが淹れる珈琲との相性が抜群で、あいつにも気に入ってもらえたら嬉しいなぁ…。
「あー、その…それってもしかして…俺だったり…するんじゃ…いやでもな、」
「…ん?」
急にびた、と動きが止まって涼やかな風が頬を撫でる。
背中に嫌な汗が流れた。さっきまでふわふわと漂っていた思考が急に覚醒する。
「店の方向、こっちでいいか?」
「…うん…あの…自分で歩けるから……」
一気に顔が熱くなって、安川の背中から降りようとした。それなのに動きは止まらず、なんとなく彼に笑われたような気がして余計に恥ずかしくなる。
「今日はおまえの奢りだからな。店までこのまま運んでく!」
「えっ⁉ちょっとそれは…!」
店が閉まり始めたアーケード街に、安川の笑い声が微かに響いた。
× × ×
薄暗い喫茶店の店先に、呆然と立ち尽くす男が2人。
「…店、閉まってる…」
「臨時休業……?なんてこった…」
その後2人で近くの居酒屋に入り、烏龍茶で乾杯をした。唐揚げが美味いだのお茶漬けは梅に限るだのと好き勝手話しつつ、仕事納めに向かってがんばろうと締め括る。
ちなみにチーズケーキは週末に持ち越しとなったが、その後カラオケにラーメンにと続いたのはまた別の話。
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