意味の外側

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 意味のないことは、本当に意味のないことなのだろうか。  例えば空を見上げること。  空から鳥の声がしたから。雨粒が落ちてきたから。  それは確かめるという意味がある。だが不意に、なんとなく、なんてこともある。そこに意味はない。だがその行為は本当に意味がないのだろうか。  確かに空を見上げて何かあるわけではない。だがしかし、そこに魚が浮かんでいることもある。  私が何気なく空を見上げたその時、白い魚が視界をよぎった。それは明らかに雲ではない。厚みを持った確かな生きものだった。  目で追っていると、やがてビルに隠れた。今度は足がそれを追った。  それを追うことに意味はない。私に益をもたらすわけではない。何をしているのだろうと、きっと見間違いだろうと思いながらも、白い魚は私を惹きつけた止まない。  息を切らせて入った路地。そこを抜けると巨大な水槽があった。  おかしい。この路地の先は地方のスーパーのはずだ。  だが、今はそれより水槽がひどく気になった。幅五十メートルほどの透明な水槽。この空間には白い壁と水槽しかない。そして、中には先ほど見た白い魚が数匹、悠々と泳いでいる。  水槽の底に敷かれたサファイアのような石。揺れる水草も同じような色をしている。魚はその白い鱗に青を写し、きらきら、と。  私はそれをぼんやりと眺める。魚たちは時折こちらをちらと見るが、実際に見ているかは分からない。  お互いに何のアクションを起こすわけでもない。ただ、そこに、ある。  白い魚と大きな水槽。そして、私。  意味もなく空を見上げ、意味もなくここにたどり着き、意味もなくただ眺めている。  この意味のないことに、意味はあるのだろうか。  素晴らしい体験だ! なんて誰かは言うかもしれない。だが、今ここにいることは体験などという能動的なものではなく、ただただ、意味のない羅列の結果。  だが、それに意味はないのだろうか?  そもそも意味とは何だろう。  何かを生み出すこと? 何かを得ること?  ただ、白い魚と水槽と私がある。ただ在る。  この私たちの「在る」はそんな大層なものではない。意味などないのかもしれない。  いや、意味の外側に「在る」ものなのか。  そんなことを考えているうちに彼らは消え、私はスーパーの喧騒の中一人佇んでいた。  意味のないことに意味はない。  だって、それは意味とは違う場所、意味の外側に浮かび、漂い、回遊し、そこに「在る」ものだから。  今日も白い魚は空に浮かぶのだろう。そこに意味はない。  今日も私は何気なく空を見上げるのだろう。そこに意味はない。  私たちは今日も意味の外側で、ただ在るのだろう。 了
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