一面の野の花

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冬の終わり、風の中に春の気配がようやく現れた頃、亜紀は河原を歩いていた。冬の終わりと言っても真冬ほどの寒さではないという程度で、まだまだ冬物のコートは手放せなかった。 吹く風に襟を寄せて、足元に小さな草の芽を見つけながら、上流に向かって歩いていた。 顔を上げると、河原から上る階段に着いていた。この階段はそのまま丘の上まで伸び、頂上の小さな社まで続いていた。 亜紀のお気に入りの場所だった。 階段の手摺はまだ冷たいが、足元にはちらほら小さく芽吹いている。 あと1ヶ月で花が咲くかな、と考えているうちに鳥居に着いた。 手を合わせて振り向くと、川の向こうに住宅が並んでいた。小さな丘だがそれでも川岸のためか見晴らしはいい。 気付くと風の冷たさも忘れていた。 ふと風向きが変わり、ほんのりと甘い香りを運んできた。風は、背後の山から吹いてきた。 亜紀は階段から外れた川の反対に下り、藪をかきけながら山を登りだした。 山道の途中でポッカリと空いた広場があり、少年が立っていた。 「やあ、お客さんかな。ようこそ」町では見かけない顔だった。 小さな体は小学生、4年生か5年生か、細く吊った目の笑顔が張り付いていた。 「少し早いかなとは思ったのだけど」と言いながら、少年が山頂に向かって歩き出したので、亜紀も慌ててついて行った。 どれくらい歩いただろう。そもそもこんなに歩かなければ山頂につかないほど高い山ではなかったような、なんてぼんやり考えているうちに、山頂に着いた。 そこには少年とよく似た顔の人々が集まり、中心には金の屏風を背に羽織袴の男性が座っていた。親戚の集まりかもしれない。みな酒が入り料理も出され、華やいだ雰囲気だった。 年嵩の男性が近づいてきて、「お待ちしてました。さあさあ」と亜紀を衝立の向こうに案内した。そこではやはり似た顔の女性たちが待ち構えており、亜紀はあっという間に顔も髪も整えられ、重い着物を着せられた。白い生地に金糸の糸が刺繍された豪華な打ち掛けだった。 そのまま羽織袴の男性の横まで連れて行かれた。 「さあさあ、この盃に口を着けて。君のためにこんなものも用意したんだよ」と言われて見ると、一面に野の花が咲いていた。 「そんな、もう花咲いて……」そこまで呟いてはたと気づく。 そもそも、あの丘の背後にこんな山は今までなかった。
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