100円の贅沢

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母とのお出かけはいつも決まって美術館だった。芸術鑑賞より流行り物が好きな私には、昔の人の絵を熱心に観ることに共感できなかった。それでもついて行ったのは、その後に何でも好きな物を買ってくれるからだった。 だから母とのお出かけは嫌いではなかった。ただ、母が毎回100円だか150円のポストカードを買うのは嫌だった。何千万、何億とするであろう本物の作品を、100円ぽっちの、印刷もよくないポストカードで代用するところが、それで満足するところが、母の幸せの小ささが、嫌だった。 === 40歳の誕生日の日、私は1枚の絵を買った。まだ20代の新進気鋭の作家で、小型の作品でも100万はする。40歳は不惑の歳だ。結婚もせず、東京で気ままな一人暮らしをする私のこれからの人生を彩るものとして買った。 母が亡くなったという知らせを聞いたのはそのわずか3ヶ月後のことだった。心筋梗塞で倒れてそのまま帰らぬ人となった。30代になってから仕事の忙しさを理由にほとんど実家には帰っていなかった。本当はいくらでも帰る機会は作れたのだが、帰らなかった。楽しいことも嬉しいことも、共有したいこと、共有できることが、その頃の私と母の間になかった。 まるでドラマか映画を観るような、遠くの出来事を眺めているような感覚の中で葬儀は終わった。人並み程度に泣きながら、私の中でははっきりと「実感がない」と感じていた。 一通りのことが終わり、母の遺品を整理している時だった。 棚の奥から数冊の小さなファイルが出できた。百均で買ったであろう安っぽいクリアファイルを開くと、中にはあの美術館で購入していたポストカードが収められていた。 「こんなものずっと取っておいたのか…」 懐かしさよりも先に呆れる気持ちの方が強かった。なぜこんなにもポストカードを集めていたのか。そんなに大事なものだったら棺の中に一緒に入れてあげれば良かったと思いながらページをめくった。 「えっ…」 どのポストカードにも、宛名面にボールペンで書き込みがしてあった。 ============== 「200●年●月●日  由美と初めて行った美術館。由美がマティスの絵を見て楽しそうだった。きれいなドレスのお姫様が由美は好きみたい。由美にかわいい服をいっぱい買ってあげよう。」 ============== 「200●年●月●日 小学校3年生になった由美。まだ日本美術の展覧会は難しかったかな。でも美人画は比較的じっくり見ていたから、やっぱりファッションは好きなのかな。私は花鳥画に一番惹かれた。由美に新しいスカートを買ってあげたので、自分にはマーガレットを1本買った。」 ============== 「200●年●月●日 由美が中学生になって部活動を始めたので、一緒に美術館に行く機会も減ってしまった。今日は久しぶりの展覧会。由美は退屈そうにしてたのが残念。絵を見ることが楽しくなくなったのかな。それでも一緒の時間を過ごすことができるだけでも幸せなのかな。あとどのくらいこうして過ごすことができるかな」 ============== 「201●年●月●日 昨日由美と大喧嘩をしてしまったので、今日は1人。結婚前は1人で来ていたたことが当たり前だった美術館も、由美と連れてくるようになったら、少し寂しい。でも久しぶりに1人で過ごす時間ができてよかった。母親としてはまだまだ未熟だけど、私は私であることも忘れずにいたい」 ============== 「2020年●月●日 一目見て気に入った作品。ポストカードがあって良かった。いつかこんな景色を見ることができたらいいな。できたら由美と一緒に旅行で行けたら良いけど。由美は中々戻ってこないのが寂しいけど、元気で暮らしているようだ。由美が元気で、思いっきり笑っていますように。一緒にマティスの絵を見た時の様に。」 ============== 「うあ、ああ…...ああああ…うぅ」 口を押さえ、それ以上叫び出してしまうのをようやく堪えた。しかし、ぼたぼたとこぼれる涙だけは防ぎようがなかった。私の知っている母が、私の知らない母が、ポストカードの中にいた。 母は買ったポストカードに、その日の思い出を書いていた。私との他愛のないやり取り、どこに行って何を食べたか、何を買ったか、私が美術館でどういう反応をしたか、母が何を感じていたか…取り留めのないことを、丁寧に文字にしていた。 安っぽい趣味だと軽蔑していたポストカードは、私が何百万、何千万、何億と積んだって、二度と手に入れることはできないものだった。 ========= 「どうしてお母さんはいつもポストカード買うの?」 「うん?そうね…。これがお母さんのとびっきりの贅沢だからかな。」 「このポストカードが?」 「これは、ただのポストカードじゃないわよ。世界でたった1枚の宝物なんだから。」 「どうして?他にもあるよ?」 「だって、これはママと由美が今日この絵の前に一緒にいたっていう証なんだから。ママと由美の大切な時間がここに封じ込められているの。」 「ふーん・・・。変なの。」 「ふふっ。そうね、変ね。」 ========= 私の部屋には若手作家が描いた100万円の小さな絵と、古びた100円のポストカードがたくさん飾られている。小さな絵は私の未来を照らしてくれる。古びたポストカードは、私の過去を支えてくれる。 ずっと強く生きようと思っていた。でも今は少しちがう。 ずっと笑って生きよう。マティスの絵を見た時のように。
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