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残暑の昼も過ぎ、太陽が西に沈まんと傾いていた。それにつれて周囲の色も明るさをなくしてゆき、目はだんだんと物の境界を見失っていった。
いよいよ空も暗くなり、空に少し残った雲に、波長の長い赤を中心とした色が映っていた。
たそがれどき。他は誰そ。彼は誰そ。
「そちらに行くと危ないよ」男の声に引き止められた。
川の土手、誰もいないはずだった。
声の方に目を向けると、丁度沈みかけた太陽の方向だった。逆光で容貌がわからない。若い男のようだが、どうか。
「蟹でも捕るの?あっちの橋桁の方が良さそうだけど」
「べつになにも……」洋子は俯いて答えていた。「なにもかも、もういいかな、って」
終わらない家事、考え続けなければならない献立、パートでは最初の話とは違う仕事もさせられていた。疲れているのに家では何もしない夫と子供が、やりきれなかった家の管理に文句を言う。洋子の疲労は察してくれない様子だった。自分の現状を伝えようにも、家族の役割を変革する過程で起こる面倒に、洋子の気力は耐えられなさそうだった。
「このまま川に入れば、楽になるかなって」
虚ろな眼差しで川を見る。2キロほど下れば海に届くこの川は、川幅が広く流れも緩やかだった。川面を魚が跳ねる。
「ふぅん、楽にはなれないと思うけど」
声をかけられたせいで、先ほどまで僅かにあった気力も失われていた。近くの大石に腰を掛ける。空は黒さを含み始めていた。
「あれ、入らないの?」なんてとぼけたことを言う。
「その気も無くなっちゃった」と呟く。
遅かれ早かれこの世を去るだろう。今回は止められてしまったけど、また気力が増えた時に誰もいなかったら、わからない。
「寿命の前に死んじゃうとさ、どうなるか知ってる?」
え、と顔を上げる。角度の下がった太陽はもう彼を照らさず、闇が落ちかけているのでやはり顔は判然としない。
「そんなこと考えたこともなかった…どうなるの?」とにかく目の前から逃れたい、その一心だった。
「漂うのさ、その辺に。誰にも気づかれずにいつまでも」
ざあ、と風が木を揺らす。昼の暑さが幻だったかと思うような冷たい風。
「自分が知ってる誰か、そうだな、例えば君の息子とかが、なにかに挫折して川に来る。でも漂う君がそれを見つけたとしても、彼は君には気付かないし、君だって何一つしてやれない」
ああ、そうか。助けてあげられないんだ。そう思うと、ふいに家に帰りたくなった。
「例えば君の夫が洗濯物を取り込まないうちに雨が降っても、君は取り込めないし」
そうだね、私がいないとあの家は滅茶苦茶になるだろう。これまで必死に維持していたあの秩序が、易易と崩壊してしまうのは悔しい。
「ありがとう、少し落ち着いた」
「それは良かった。和史くんと大和くんにも話をするといいよ。君の負担を少しでも減らすんだ」
え、なぜ夫と子供の名前が、それよりも私、この男に息子がいるなんて話をしたっけ、とハッとして顔を上げると、そこには誰もいなかった。
すっかり日が暮れて、あたりにはまだ少し明るさが残っている。彼のいたところには窪みすらない。
そうだ、あの話し方。大事な時に限って茶化すような話し方をする。覚えがある。あの日は大雨だった。
「兄さん……」洋子が呆然と呟き、やがてどっぷりと日が暮れ光が差さなくなった川面から腰をあげた。
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