暴走特急

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2024年9月9日の羽田空港、雑踏の中、僕は無人チェックイン端末の前に立っていた。手にはフランス行きの航空券の予約確認書。これから始まる挑戦に胸を躍らせながらも、職場のことが頭をよぎる。「何食わぬ顔で有給を取って、いざフランス行きか・・・・」と心の中でつぶやく。 端末の画面に指を滑らせ、必要な情報を入力していく。すると、搭乗券が端末から出てきた。 プレミアムエコノミークラスのチケットを持つ僕は、羽田空港のラウンジに向かう。 プレミアムエコノミークラスにした理由は食事だった。 日本の羽田空港はもちろんフランスのシャルルドゴール空港のラウンジでも食事ができる。 ラウンジではビュッフェスタイルの食事が楽しめ、日本語が話せるスタッフもいるため、英語が苦手な僕にとっては安心できる場所だ。 好きなだけ食べられるビュッフェで、出発前のひとときをリラックスして過ごす。 機内に乗り込めばプレミアムエコノミークラスのシートは広く、リクライニングも深いので、長時間のフライトでも快適に過ごせる。 できれば、一つ上のビジネスクラスの方がシートがフラットになってベットになり、より快適に過ごせたが、ここは節約することにした。 プレミアムエコノミーでも十分。フランスについてからホテルでじっくりと休むとしよう。 僕は、フライト中に映画を見たり、少し仮眠を取ったりしながら、フランスへの到着を待つ。日本との時差は7時間だ。 現地時間の17時頃、シャルルドゴール空港に到着。フランス行きの前に僕は情報を集めた。フランスに慣れていない僕は空港近くのホテルに泊まることを決断する。イビスかノボテルか?値段が比較的安くて評判がいいホテルを探した。 現地時間の9月9日の17時15分頃、日本時間は2024年9月10日0時15分で真夜中だ。 海外は香港やグアムなどの経験はあったが、時差は1時間。それほど影響はなかったが、今回は7時間。時差ぼけはうまく対処できるのか?不安がない訳ではなかった。 今回のフランス行きだが、飛行機の遅延も考えて、1日多く余裕を取っていた。もし飛行機が予定通り到着したのならル・ブルジェ航空宇宙博物館に行こうと考えていた。コンコルドやボーイング747などの実機を展示している博物館だ。これは予定通り実行された。ル・ブルジェ航空宇宙博物館にはウーバータクシーを利用した。電車やバスを使えば手間がかかり時間もかかるからだ。そしてまたシャルルドゴール空港へ戻ってきた。空港からはレンタカーを借りて、マニクールへ向かう。ル・ブルジェ航空宇宙博物館にレンタカーで向かってもよかったが、フランスに慣れていないこと、事故でも起こして計画が狂うとまた面倒だ。今回のために国際免許証を手に入れた。レンタカーは左ハンドルだったが、外車ディーラーに勤めていた時期もあったので、問題はなかった。レンタカーにはカーナビは付いていたが、スマホのナビも併用していた。これで迷子にでもなれば終わりだ。幸いマニクールのサーキット近くのホテルにたどり着いた。ホテルはHôtel Restaurant Le Paddock - 4 Etoilesだ。 翌朝の7時30分にはサーキットの集合場所に出向いた。LRS FORMULAはF1に乗れるという珍しいイベントを開催している。LRS FORMULAは複数のF1を始めとしたレーシングカーを所有しており、今回乗り込むのはBenetton B198だ。Benetton B198は1998年にF1に出走したマシンで2位表彰台を2回、ポールポジションを1回獲得と優勝争いをしたマシンといっていいだろう。そんなF1マシンを僕はコントロールできるのだろうか? 午前7時45分 にはこのイベントはスタートする。座学を受けるが、当然、日本語ではない。僕はこれでも日産レーシングスクールといったレーシングスクールは複数受講していたし、フォーミュラートヨタやF4といったレーシングカーの経験はあったから、いっていることはなんとなく理解はできた。もしもの時はスマホかタブレットで翻訳だ。いってみればフランス語どころか〝英語も話せないのにF1に乗りに来た〟訳だ。 あちらのスタッフも「こいつ大丈夫か?」と不安はあったかも知れないが、イベントは淡々と進み、フォーミュラ・ルノーでの実走となる。 レーシングカーは常に進化する訳だが、フォーミュラ・ルノーは少し前のF3相当の性能を誇る。これでまるでダメだと「帰れ!」と追い返される。 フランスでパニックを起こさないために、F1はもちろんフォーミュラ・ルノーについても情報は集めた。これは奏を功し難なくこなせた。 つうかこのフォーミュラ・ルノーでも十分楽しいな・・・・ 最後にF1に乗り込む。そうはいっても3周程度だ。おそろしいパワーだ。そして速い。とてもではないが、3周程度ではF1を乗りこなせたというレベルではないだろうが、これは素晴らしい企画だ。また参加したい。 イベントは特に問題なくこなせた。僕はガレージを見学させてもらったが、複数のF1マシンにフォーミュラ・ルノー。これはすごい。レーシングカーのマニアなら鳥肌が止まらないだろう。F1にも乗れて夢のような時間だった。 イベントの終了後はその日はパリには戻らずHôtel Restaurant Le Paddock - 4 Etoilesでもう一泊だ。 フランスの現地時間2024年9月10日19時0分 は、日本時間の 2024年9月11日2時0分なのだ。 どうせ、飛行機の出発は9月11日の夜だ。ホテルのチェックアウトはお昼だし、それまでゆっくりすればいい。 空港のラウンジに入れる出発の3時間前に到着できればベストだ。早く着いたならシャルルドゴール空港を見学すればいい。世界でも有数の空港だ。驚くことも少なくはないだろう。 日本への帰国直前、シャルルドゴール空港のラウンジを利用する。ここでもビュッフェスタイルの食事が楽しめ、英語が苦手な僕にとっては安心できる場所だ。ラウンジでリラックスしながら、フランスでの挑戦を振り返る。「本当にやり遂げたんだ」と、心の中でつぶやきながら、勝利の美酒を味わうように、ゆっくりと食事を楽しんだ。 僕は度々大阪城公園を訪れている。ある人物に遭遇することを楽しみにしている。 見慣れた顔が目に入った。秀吉さんと呼ばれる謎の老人だ。 見た目はまるで俳優の竹中直人にそっくりで、初めて会ったときに「本当に竹中直人に似ていますよね」と言ったら、 「失敬だな!君は!」と笑いながら怒られたことを思い出す。 日本に帰国した僕は、再び大阪城公園を訪れる。いつものベンチに座っている秀吉さんに報告するためだ。見た目はまるで俳優の竹中直人にそっくりな秀吉さんは、僕を見るなりにっこりと笑いながら手を振った。 「おう、F1乗ったんか?どうやったんや?」と秀吉さんが尋ねる。 僕が大阪城公園を訪れる理由は、大阪城がパワースポットであるからだ。ここに来ると、心が落ち着き、エネルギーが湧いてくるのを感じる。 しかし、初めて秀吉さんと出会ったのは、少し違った状況だった。 大阪城公園を訪れたあの日、地元のヤンキーに絡まれてしまった。難癖をつけられ、どう対処すればいいか分からず困っていたその時、秀吉さんが現れた。「おい、何をしているんだ!」と一喝すると、ヤンキーたちは驚いて逃げていった。「やべぇ秀吉のジジイだ!」 「大丈夫か?」と秀吉さんが声をかけてくれたことで、僕は助けられた。その日から、二人で度々大阪城公園で会話を交わすようになった。 秀吉さんは大阪の街について語りだした。 「大阪の街はおもしろいやろ。あちこちでコントが行われているというのは本当の話や」 続いて秀吉さんは大阪の特異性を語る。 「JRに新快速という電車があるのは知ってるな?あれは昔、新大阪にも止まらない鬼畜ダイヤやったんや」 「新大阪にも止まらないって、あそこは新幹線の乗り換え駅じゃないですか!」 「その新大阪にも止まらないのが、当時の新快速や」  ウィキペディアで確認してみた。新快速は1970年10月1日に国鉄が京阪神地区(関西エリア)の東海道本線・山陽本線(琵琶湖線・JR京都線・JR神戸線)系統で運行を開始した。新快速は当初、さらなる速達サービスの提供を目的に、京都駅 - 西明石駅間に1日6往復が設定された。途中停車駅は新幹線駅の設置予定がない大阪駅・三ノ宮駅・明石駅のみとした。将来の増発に際して、大阪駅・京都駅ともに0・15・30・45分発のパターンダイヤとするため、新大阪駅は通過していた。 ・・・・・本当だ。新大阪にも止まらない。鬼畜ダイヤだ。新快速の新大阪停車が実現するのは1985年(昭和60年)3月14日である。秀吉さんは話を続ける。 「新快速は新大阪に止まらない・・・・。つまりどうなると思う?新快速が特急を抜くんや」 「特急って特急料金を払ってますよね?」 「特急料金がいらない新快速が特急を抜く。痛快だと思わないか?最近でいう下剋上というやつや」 新快速が新大阪に止まらない時代。今では信じられないことが日常化していた。大阪を出発した特急雷鳥は新大阪に停車する。新幹線からの乗り換え客を乗せるためだ。ところが新大阪に止まらない新快速は新大阪に停車のために減速している特急雷鳥を豪快にぶち抜いたのである。当時の日常も当時の子供たちには衝撃だったようで、やたら速い電車が新大阪を通過するさまを見て「なに!あれ!」と驚きの声を上げたのである。 特急電車の管轄は国鉄本社。新快速は大阪鉄道管理局だった。特急は国鉄の看板だっただけに国鉄本社は大阪鉄道管理局にクレームを入れた。 「新快速が特急を抜くのはみっともないからやめなさい」 しかし大阪鉄道管理局は聞き入れない。 「近くに阪急やら阪神やらいるダメです」と断ったとか「バーカ!」といって電話をガチャンと切ったとか様々な憶測を呼んだ。なかなかいうことを聞かない大阪鉄道管理局に国鉄本社は「新快速に抜かれるよりはマシ」と特急雷鳥の大阪発車時刻を5分遅らせたとのことである。なぜ大阪鉄道管理局はかたくなまでに国鉄本社の言うことを聞かなかったのか?様々な憶測があるが、いつもいいようにやられていた国鉄本社への大阪鉄道管理局の反骨精神とみる人もいた。 「こういった場合大阪の人たちはいうことを聞かない」これに納得する人も少なくないだろう。 「そりゃまたすごい時代でしたね」 「この話、ただの昔話だと思うやろ。ところが、今もなんだ。新快速は特急を抜かす。だから特急殺しともいわれる」 「それじゃ暴走特急じゃないですか」 京都駅を11時や12時に出発する特急はるか。ところが同じ11時や12時にも新快速が京都駅を発車する。その新快速が特急はるかを豪快に抜くのである。しかも新快速は途中、高槻にも停車するのに新大阪到着は新快速の方が早い。新快速は特急はるかに抜かれることもなく大阪から先へ豪快に走り抜ける。特急はるかに乗車には特急券が必要である。まさに現代の下克上である。 「特急より新快速の方が早い・・・・この下剋上に大阪の人に意見を求めれば『金を稼げないやつが悪いんや』といわれるやろ。なんとも大阪はおもしろい街やろ。」と秀吉さんは締めくくる。 特急はるかは乗車率が今一つで〝空気輸送〟と呼ぶ人々もいる。 金にがめついといわれる大阪人なら『金を稼げないやつが悪いんや』といっても不思議ではないかもしれない。 秀吉さんとの会話の中で、ふと海外での話に及ぶ。僕は、香港のキャセイパシフィック航空の企画でボーイング747のシミュレーターを体験したことがある。機長は外国人で、英語もろくに話せないのに香港まで行き、外人機長とボーイング747のシミュレーターをやった。また、韓国のアシアナ航空の企画では、ソウルの乗員訓練センターでボーイング767のシミュレーターを体験した。さらに、グアムではライセンスがなくてもセスナを飛ばすことができるという特別な体験もした。いずれも当時の日本では実現は不可能であった。 また、香港の街中で〝パスポートなし、カードなし、現金なし、スマホなしの無一文〟の絶対絶命状態から日本に無事帰国できたことについても話をした。 「どうやって帰って来たんや?」と不思議そうな顔をしている秀吉さんに、僕は説明した。 父親が癌で亡くなり、父の葬儀や法事などが落ち着いてから母親と香港へ行くことになったが、パック旅行だった。これは自分1人のバックパッカーのような状況では高齢の母親には負担が大きいだろうとの配慮だった。 空港からホテルなどは旅行会社が手配したバスで、ここまではよかった。このパック旅行の中にはバスツアーも組み込まれていたが、香港はトイレが日本に比べると少ないから注意していたはずが、バスのエアコンの冷気が強すぎたためか尿意が襲ってきた。このままではバスの車内で漏らすという、この歳では絶対に避けなければいけない状況になってしまう。 バスは香港の海底トンネルの前で渋滞にはまっていた。そこでたまたま競技場を見つける。競技場であればトイレがあるはずだと考え、バスのコーディネーターに「ちょっと腹の調子が悪いんですよ。あそこに競技場があるからちょっとトイレを借りてすぐに帰って来るから。このバスは渋滞にはまっているから、すぐに帰ってくるからちょっとバスから降ろしてください。」と言ってバスからいったん降りた。そしてトイレを済まして、まだ渋滞にはまっているバスに戻ろうとすると、まさかのタイミングで渋滞が解消され、バスが走り出した。 すぐにまた渋滞で止まるかと思えばバスは止まらない。バスの最後部を叩くは「おーい!おーい!」と叫ぶがバスはまったく止まらない。そしてバスは段々と小さくなっていく。完全に途方にくれた。現金やカード、スマホもなければパスポートもバスに置いてきたカバンの中だ。バスが戻って来ることも考えたが、バスが戻ってくることもなかった。そして時間だけが淡々と過ぎていく。10分、20分と過ぎていく。さてどうするか……。 バスは戻って来ないが、タクシーに目が付いた。そしてプランが思いついた。とりあえずタクシーに乗り込み、宿泊ホテルのインターコンチネンタル香港へ向かう。そしてインターコンチネンタル香港に着いたらタクシーを待たせて、ホテルでスタッフに事情を話し、タクシー代を一時的に立て替えてもらう。可能であればホテルで一時休むことにして、なんとか母親と連絡をとり再度合流するという訳だ。 たまたま当時のインターコンチネンタル香港では部屋にスマホが置いてあり、自由に使っていいことになっていた。そこで旅行会社の営業開始時間に合わせて電話で連絡して、ことの顛末を話し、なんとかバスのコーディネーターのスマホの連絡先を教えてもらい、今後どうするかを話した。僕はもうバスツアーには参加できず、夕方に母親を迎えに行くだけかと思っていたが、たまたま昼食のレストランがホテルの近くだから来ますか?と言われた。場所は以前、宿泊したことがある日航ホテルの近くだった。当時のスマホでもマップ機能があったから、マップ機能を頼りに徒歩でレストランに行くことにした。時間にして徒歩で10分程度。もちろん、このスマホはインターコンチネンタル香港の部屋に置いてあるスマホである。 こうして最悪な状況ではあったが、たまたまのひらめき、ホテルのサービス用のスマホの存在という奇跡もあり、また母親と合流することになった。バスからはぐれてから母親と合流するまで3時間程度だったとは思うが、恐ろしく長い3時間であった。日本に帰国してからはインターコンチネンタル香港にはものすごいお礼のメールを送った。 「そんなことがあったんや」秀吉さんはニヤリと笑った。 僕は、最近考えている4大プランについて話し始めた。フランスでのF1体験、イギリスでのコンコルドシミュレーター体験、ジョーダングランプリのF1マシン体験、そしてアメリカでのデルタ航空のボーイング737シミュレーターへの挑戦。秀吉さんは興味津々で話を聞いていた。 「海外に行けば、日本ではできないことがたくさんあるんやな」と秀吉さんは感心したように言った。 「おもしろいやないか。やってみなはれ。」と秀吉さんは続けた。 「期限は半年間。これをすべて実行できたら費用は全部みたるさかいに。」 僕は驚きと喜びで胸がいっぱいになった。 「本当にいいんですか?」 「もちろんや。君の挑戦を応援しとるで。」秀吉さんは笑いながら答えた。 でも、この時は秀吉さんの冗談だと思った。 そんなうまい話がある訳がない。 ましてや、面識があるとはいえ、それほどの間柄でもない。 だいたい、フランス、イギリス、アメリカで全部計画通りにやったとしていくらになる? ロト6やロト7なんかで高額当選でもしない限りは無理だ。 しかし、これは実行に移された。全部は無理だからフランスのLRS FORMULAだけだ。 とりあえず、秀吉さんの話は鵜呑みにせずに、実行にはローンを組んでということだ。そうはいっても秀吉さんの一言が後押ししたこともまた事実だ。 秀吉さんには今回のフランスでのF1の話をした。スマホで写真や動画を見せた。秀吉さんは「本当にフランスにはそんなもんがあるんやな」と少なからず驚いた様子だった。 「ところでフランスでいくらかかった?」 「結構いい値段でしたね」 「そうか・・・・」秀吉さんはポケットから札束を取り出した。 「約束の金や。次も頑張るんやで」 「!? あれは本当の話だったんですか?」 「わしは嘘は嫌いや」 「あのう・・・モビットとかではないですよね?」 「アホ!わしは消費者金融やない!その金はわしのポケットマネーや!」 その後、約束通り、半年の間にイギリスでのコンコルドシミュレーター体験、ジョーダングランプリのF1マシン体験、そしてアメリカでのデルタ航空のボーイング737シミュレーターの体験が行われ、その都度、秀吉さんからポケットマネーをもらった。 秀吉さんの現在の職業はデイトレーダー。彼の特異体質の一つで、人から面白い話を聞くと脳が活性化し勘が冴える。このところのデイトレードの成績はほとんど連勝だという。負けた時は前日に酒を飲みすぎて体調を崩し風邪をひいた時くらいで、この時は勘が働かなかったせいだという。 大阪城公園はパワースポットだから毎日のようにやってくるし、一般の人の面白い話を聞くと脳が活性化して勘が冴えるという。 僕の4大シリーズの話は秀吉さんにとって衝撃的だったらしく、この間に億単位で荒稼ぎしたらしい。 つまり、毎回、僕に気前よく現金を渡すのは秀吉さん曰く「情報料や」という訳である。ただの奇人変人ではなく彼なりの理由があった訳だ。 4大シリーズも無事に終わり、秀吉さんには感謝しかなかったが、秀吉さんには最後に一つだけお願いをすることにした。 「なんや、お前にばかり構っているほど暇やないんやで。それともわしを納得させるだけの企画なのか?」 最後にお願いした企画とはF1イギリスグランプリへの出走である。これはジョーダンGPのF1マシンを所有するドリフトリミテッドの企画でF1の本戦ではないが前座で他の古いF1マシンとデモ走行する訳だ。 「それはおもしろそうやな・・・・」秀吉さんは興味を持った。 僕のF1イギリスグランプリへの出走は実現するのか?
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