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おやつを食べ、夕飯を食べ、それから夜食。購入した大量の食品を一晩で食べきってしまった。朝起きて歯を磨くと、吐き気が込み上げてきた。
それでも朝食を抜くことは考えられず、かろうじて残していたクリームパンを、カフェオレで流し込んだ。
無理矢理身体に鞭をうち、百合子は出勤した。はぁ、どっこいしょ、と鞄をデスクに置いたところで、「百合子さん、ちょっと」と声をかけられた。
「浅倉、くん……」
恋人がいるとわかっても、恋心はいまだ、胸の中で育ち続けている。
いつもと違う凛々しい表情に、新たな一面だわ、と、百合子はついときめく。
呼び出されてともに入った朝の資料室は、とても静かだ。陽光が窓から差し込み、世界を色づかせる。
愛の告白だったならば、どれだけ理想的なシチュエーションであったことか。真逆のことを言われると、予想はついていた。
「渡辺さん」
背を向けたままの文也が、苗字で呼んだ。その瞬間、百合子の目からは涙が溢れた。百合子って呼んで。些細な我儘を、彼はもう、聞き入れてくれない。
くるりと振り返った文也は、百合子の泣き顔を見て、表情を一度、曇らせた。だが、すぐに気を取り直して、毅然とした態度を取る。
「もうお分かりいただいていると思うんですが、僕と古河さんは、お付き合いをしています」
鼻をわざと大きく啜った。彼は、同情さえもしてくれない。目を合わせずに、淡々と言葉を紡ぐ。
「結婚前提での話です」
百合子はわっと声を上げた。二人が別れたら、まだチャンスはある。百合子の淡い期待は、見事に打ち砕かれてしまった。
誠実が服を着ている。
厄介な相手にも、根気よく付き合う彼を、誰かがそう評した。百合子もそう思う。だから好きになった。
彼が宣言した以上、ふたりは必ず結婚する。浅倉文也は、そういう男だ。
両手で顔を覆ってしくしくと泣いている百合子の頭の上に、文也の声が落ちてくる。もう少し、申し訳なさそうにしたらどうかと思うほどの、事務的な声だった。
「そういうわけなので、もう、渡辺さんとはお食事には行けません」
「……そう、そうよね」
「それから、夏織さんを虐めたり、傷つけたりしないでください。もし、そんなことをすれば……」
文也が言葉を切ったので、百合子は顔を上げた。
視界に入ってきたのは、本当に文也か?
浅倉文也は、美形でもなく、イケメンという呼称も似合わない。彼を表現する言葉は、人のよさを全面に押し出した「好青年」以外にはない。
けれど、目の前の男はいったいどういうことだろう。見えない力で、百合子を圧倒する。
少女漫画でも、正統派の王子様じゃなくて、不良っぽい魅力を振りまくタイプのヒーロー。そんなオーラが見える。普段とのギャップの効果もあり、百合子は思わず、文也に見惚れた。一声も上げられなかった。
「僕、あなたのことをどうするか、わかりませんよ?」
ひょっとしたら、殺してしまうかもしれません。
最後にぞっとするほどきれいな笑みを浮かべて、文也は先に、資料室を出て行った。置いて行かれた百合子は、どっと疲労感に襲われて、へなへなと床に膝をついた。
胸の高鳴りは、今までよりも増していた。恐怖心だけではない。
まさか、浅倉文也が、あんな顔を隠していただなんて。
「殺す」という脅し文句は、強い感情を伴う言葉だ。
「そうよ。愛の反対は無関心って言うじゃない」
少なくとも文也はまだ、自分の一挙一動に関心を払ってくれる。
百合子の涙はいつの間にか、引っ込んでいた。
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