百合子

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 青年はサトルと名乗り、人のいい笑顔を浮かべた。その目は優しさに満ちていて、百合子はペラペラと思いのたけを語った。  初対面、この場限りの付き合いだからこそ、下手なプライドが邪魔をせずに、素直に話すことができた。親きょうだいには言えない辛い失恋話を、サトルは時折相槌を打ちながら、黙って聞いてくれる。  百合子はときどき、想いが涙となって込み上げてきて、まともに喋れなくなった。彼はその度に、百合子の背中をゆっくりと撫でて、落ち着かせてくれる。  文也は百合子に、指一本触れることがなかった。思えばその時点ですでに、脈はなかったのだ。  気づかなかった自分の浅はかさに、後から後から涙が頬を伝い落ち、化粧が溶けてドロドロになる。  マスターは黙って、水の入ったグラスと熱いおしぼりを百合子の前にそっと置いた。お礼を言おうと思ったが、言葉はすべて嗚咽になって潰れてしまった。  顔を拭くと、だいぶ落ち着いた。鼻をすん、と啜った百合子は、汚れたおしぼりを見て、自分がそばかすやニキビ跡の残る素顔をさらけ出していることに気がついて、下を向いた。 「ごめん」  サトルはなんで謝るの、と柔らかく百合子を包み込んだ。 「さ、三十過ぎのおばさんのスッピンなんて、見たくなかったでしょ」  また涙腺が刺激される。百合子の震える声に、サトルが声を上げて笑うので、何事かと顔を上げた。すると、彼はとろけるような甘い視線を百合子に注いでいた。 「そんなことないよ。百合子さん、めっちゃ肌きれいじゃん。ぷにぷにもちもちしてるの、きもちいー」  長い指先が、百合子の丸々とした頬に触れる仕草が、とても自然だった。照れることも逃げることも忘れて、百合子は男の手を受け入れていたが、すぐにはっとして振り払う。 「お、大人をからかうんじゃありません!」  二十歳そこそこの青年が、十歳以上年齢も違う初対面の女を気軽に口説くなど、罰ゲームか何かとしか思えない。  近くのテーブルの若者たちが、にやにやしながらこちらを窺っているのではないか。被害妄想に駆られて、百合子は辺りを見回した。 「百合子さん」  サトルは水割りのグラスを傾けて、真剣な声のトーンで言う。 「……別に、からかってるつもりはないよ。こんな風に一途に想ってくれる可愛い人がいるのに、その人は見る目がないなって思っただけ」 「彼のこと、悪く言わないでよ!」  思わず声を荒げてしまった。衆目を集めていることに気がついて、百合子は恥じ入って視線を逸らした。  馬鹿な女だと思われただろう。自分を振った男に執着する、ストーカーじみた怖い女だと思われたに違いない。  けれど、サトルはしみじみと呟いた。 「本当に、その人のことが好きなんだね」  責めるでも咎めるでもなく、呆れるでもなかった。ただただ温かいその言い方に、百合子の目からは再び、涙が伝い落ちていった。  頭をぽんぽんと一定のリズムで叩いて、サトルは慰めてくれる。  きっと、いろんな女の子に対して同じことをしているんだろうな。  思ったけれど、嫌な感じはしなかった。  昨日までの自分なら、「ナンパ男!」と突き放しただろう。けれど、彼は違う。なぜだか信じられた。 「そんなに好きならさ、諦めること、ないと思うよ」  顔を上げた百合子は、眩しいほどのサトルの微笑みを直視して、頭が真っ白になる。 「彼の気を引くようなこと、試してみたらどうかな」  例えば、と彼は一度、言葉を切った。黙って見つめてくる彼の瞳が意味深で、百合子も「例えば」と繰り返す。  サトルは微笑むと、百合子の頬に触れた。 「……考えてみて。もう振られてるんだから、逆になんだってできるんじゃない?」  サトルは具体的なことは何一つ言わなかった。それから、 「俺、週末はこの店に来ようかな。百合子さんに会えることを期待して」  と、一方的に言い置いて、店を出て行った。  年下のイケメンに構われることなんて、これまでの人生で一度もなかった。アルコール以外の原因によって、ぽーっとしながら、百合子はサトルの言葉を反芻していた。  そうだ。百合子は完全に振られているのだ。連休前に見た、文也の顔を思い出す。 『あなたのことを殺してしまうかも』  本当に殺されてしまうのか。文也ほどの男が、その人生を自分なんかのために、棒に振るのか。  ぞくりとした。  夏織にアクションを起こせば、文也に構ってもらえる。しかもこれまでとは違う、危険な魅力をはらんだやり方で。  殺意だって、構うもんか。  グラスの中の水を口に含み、百合子は決意する。  殺される覚悟で臨めば、きっとなんだってできる。  サトルとの出会いで、百合子は完全に吹っ切れた。
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