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連休明け、百合子は失恋を忘れるように、仕事に打ち込んだ。腫れ物に触れるごとく、「渡辺さん、これ……」と仕事を依頼してくる同僚にも、指導を請うてくる新人にも、百合子はにこやかに微笑んで、請け負った。
「渡辺さぁん。大丈夫なんですかぁ?」
文也と夏織の関係を暴露して、百合子を傷つけてしまったことを、少しは悪いと思っているのだろう。後輩ははしゅん、と肩を落としながら、百合子を気遣った。うっかり羽を濡らした小鳥のようなみすぼらしさだ。
百合子は豪快に笑い飛ばして、「大丈夫よ。失恋ごときで何日も落ち込んでいるほど、私、弱くないわよ」と、彼女の背を叩いた。
「無理、してるんじゃ」
「してないわよ。ほら、仕事仕事」
事実、百合子は特に、平静を装っているわけではなかった。
昨夜のサトルの助言をもとに、百合子は何ができるかを自分なりに考えた。そのために、百合子はまず、周囲に根回しをすることに決めたのだ。
夏織に対してすぐさまアクションを起こしたところで、訴えられたり解雇されたりしては、たまったものじゃない。
短大卒の百合子は、四年制大学を卒業している同僚たちに、内心馬鹿にされていることを知っている。それこそ、夏織も新人時代、百合子の指導を受けながらも、見下していた。
他者評価や学歴はともかく、百合子は馬鹿ではないと自認している。望めば、もっといい大学に推薦してもらえただろう。勉強したくなかっただけ。学校の勉強と、本当の頭の良さは違うのだ。
賢い女は実際に事を起こす前に、自分が不利にならないように立ち回る。夏織に襲いかかるための牙や爪を隠し、密かに研ぎ磨いておくのだ。
普通に働いている百合子を、夏織は遠くから窺っている。業務の関係で、何でもない風に夏織に話しかけると、驚いた表情を浮かべていた。
「じゃ、よろしく」
本当は、はらわたが煮えくり返るほどの怒りと憎しみを抱いている。だが、それを顔に出してしまっては、百合子の計画は破綻する。
部署が文也と異なることを、嘆いたこともある。だが、今となっては文也から離れた場所で、憎い女と働いていることを幸運に思う。夏織にはダメージを与えやすく、文也にはばれにくい。
夏織は文也に、百合子にいじめられたと訴えるだろう。そして文也は、百合子に事を問い質す。
だが、証拠を残さなければ、しらばっくれることができる。周囲を味方につけておけば、夏織が騒ぎ立てれば騒ぎ立てるほど、彼女は孤立していく。
その場面を見るのが楽しみだ。
清々しい気持ちで、毎朝早くに百合子は出勤する。ほとんど誰も来ていない中、さっさと荷物を置いて、掃除を始める。
花でも買ってくればパーフェクトなのだろうが、そこまでいくと、何か企んでいると勘繰られるかもしれない。やりすぎはよくない。何事もほどほどが一番だ。文也にアプローチする前に、気づいていればよかった。
机を雑巾で拭いていると、課長が出勤してきた。家庭内で冷遇されていて、あまり家にいたくないらしい、という噂話は事実だったようだ。
思惑通りだ、という感情をひた隠しにしたうえで、百合子はにっこりと微笑んだ。
「おはようございます」
課長は自分よりも前に百合子が来ていることに、純粋に驚いている様子であった。
市民課は、直接市民と対面する機会も多く、慣例的に女性職員が多い。その分、内部の人間関係で揉めることはしょっちゅうで、そういうときに、課長は見て見ぬふりを決め込む。
女同士の面倒に巻き込まれるのは、妻と母親の間だけで手いっぱいということなのだろう。
そんな課長をうまく利用することが、百合子の計画には必須だった。いくらことなかれ主義の課長でも、直接夏織に訴えてこられれば、動かざるをえない。
でも、課長が自分の味方であれば、夏織の訴えは一蹴される。
百合子が雑巾をしまい、手を洗って戻ってくると、課長は朝刊を開いている。ささ、と近づいていって、「お茶でも淹れましょうか? 私も飲みたいんで」と、押しつけがましくならないように言った。
家庭ほどではないが、職場でもわりと孤独な立ち位置にいる課長は、普段なら言わなきゃ動かない百合子が、率先して給湯室へ向かうと言ったのが意外だったらしく、面食らっていた。
「あ、ああ……なら、頼もうかな」
「コーヒーでいいですか?」
頷きに応え、百合子は給湯室へと向かった。出勤して第一に、ポットのお湯を沸かしておいてよかった。インスタントコーヒーの粉を、自分のと課長のマグカップに入れた。
「はい、どうぞ。朝早くから、お疲れ様です。今日もよろしくお願いします」
「ありがとう。頑張ってね」
課長のデスクにカップを置いてから、百合子は自分のデスクに戻り、今日の業務予定の確認をした。
そろそろ六月のウェディングシーズンに向けて、戸籍の写しや婚姻届を必要とするカップルが、来庁する季節だ。また、夏期休暇の海外旅行に必要なパスポート関連で、書類を取りに来る市民も多い。
三月、四月ほどではないが、そこそこ忙しい。休憩時間をしっかり取るために、全員のスケジューリングが上手くいっているかどうか、百合子はチェックした。
昼休憩の時間は、皆の気遣いによって、夏織とずらされている。
その間も、何か言いたげな課長の視線を感じていた。だが、気づかないふりをした。こちらからアクションを起こすのではなく、向こうから何かを言ってきたとき。それが夏織への攻撃のきっかけになる。
百合子はしばらくの間、朝一番に出勤することを続けた。課長だけではなく、他の職員も、百合子が早朝に来て、一人で職場を清掃していることに気づき始めていた。
「渡辺くん。その、無理をしているんじゃないか?」
来た。
百合子は内心、ほくそ笑んだ。
課長も無論、百合子が文也に振られたことを知っている。恋敵が夏織であることも。
張り切って仕事をしている百合子のことが、さすがに心配になったのだろう。いつもどおりにコーヒーを淹れて持って行くと、課長はおずおずと切り出したのだ。
狙い通りだ。あとは自分が行動するだけだ。
失恋の痛みを抱えつつ気丈に働く百合子のことを、周りは少しずつ評価していく。食堂で大盛りを頼むのを辞めた甲斐があった。傷心しているのが一番わかりやすいと思い、我慢したのだ。おかげで体重は、二キロ減った。
百合子は微笑んで、「別に、そんなことないですよ!」と言い張った。
「無理してるわけじゃないんです。ただその、いろいろあったからこそ、今は仕事に真剣に取り組みたいんです」
健気に言ってみせたが、無論本心ではなくて、作戦の一環である。強がっている様子を見て、課長は百合子に同情する。また、プライベートと仕事を切り離す態度を信頼する。
百合子の笑顔に、課長も表情を緩め、心を開いた。
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