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土曜の夜、百合子は軽い足取りで、例のバーにやってきた。
初来店時のことをマスターは覚えていて、微笑んでくれる。相変わらずダンディーだ。
カウンター席に座って、軽いカクテルを注文した。前回飲んだカクテルは美しく美味しかったが、今日は酔っぱらってはいられない。頭をすっきりさせて、話をしなければならないのだ。
「あっ! 百合子さん! やっほー」
ゆっくりとグラスを傾け、マスターと談笑しているところに、明るく声をかけられた。
「サトルくん」
本当に土曜日に来てくれたことに安堵する。やっぱりからかわれたのではないかと、ここまで来る間もドキドキしていたのだ。
隣の席に腰を下ろした彼に、「好きなの注文していいわよ」と言うと、サトルは百合子の考えをすぐに理解して、「うまくいってるみたいだね」と笑った。
「準備は完了よ。それでね、サトルくんにアドバイスしてもらえたらな、と思って。……証拠を残さずに、あの女にダメージを与える方法」
後半は小声になった。サトルはロックで注文したウィスキーのグラスを掲げた。年に似合わぬオーダーだが、不思議としっくりくる。百合子も半分ほど飲んだカクテルグラスを掲げ、静かに合わせて乾杯した。了承の合図だ。
マスターは口の堅い人物のようだが、これから先のことは、耳に入れたくない。二人で席を移動して、隅の対面シートに着き、ひそひそと相談を進める。
「とにかくあの女が恥をかいて、失敗して、彼に愛想を尽かされればいいの。それ以上は望んでないわ」
殺してやりたいほど憎むことと、実行することは別だ。百合子は夏織のために、自分の人生を棒に振る気は毛頭ない。文也のためなら死ねても、だ。
「なるほどね」
じゃあ、こんなのはどう? と、サトルは市役所のホームページをスマホで開いた。
「ここのお問い合わせのアドレスのところに、匿名で苦情メールを送ってみたら。勿論、同じアドレスじゃダメだよ。フリーメールをたくさん取得して、性別や年齢もバラバラに設定して口調を変えるんだ」
「大変そうね」
ばれないようにできるかしら、と百合子は本音を漏らした。なんだか小説家になるみたいだ。
「俺も協力するよ。乗りかかった船だしね。若い男のメールなら任せて。ベタベタ触ってきて気持ち悪かった、セクハラ職員を窓口に出すな、とかどう?」
サトルの提案に、百合子は「いいわね」と頷いた。文也は潔癖な男だ。夏織のセクハラ疑惑は、喧嘩の原因になるかもしれない。そう思うと、わくわくした。
「なんなら俺、電話もしようか? その女ってさ、百合子さんが俺みたいな奴と知り合いだなんて、思ってもみないだろ。ばれやしないって」
サトルがそこまで協力を申し出てくれるとは思ってもいなかった百合子は、「本当に、いいの?」と不安になる。
嘘の苦情を役所に入れ続けるなんて、バレたら警察沙汰だ。サトルには何のメリットもない。百合子の側に絶対的正義があるわけでもない。
振られた腹いせ、八つ当たり。ネガティブな意味合いでも構わないから、彼に自分を見てもらいたい。
そういう自分勝手な行動に、サトルが付き合う理由も義理もない。
そもそも会うのも二回目だ。お互いに詳しい事情は知らない。連絡先も知らない。ただ、週末にこの店に来れば百合子は彼に会うことができる。それだけの関係。
「あなたが私に、そんなに親切にしてくれる理由は、なに?」
サトルは小さく声を立てて笑った。
「半分は、面白いから。もう半分は」
一度言葉を切って、サトルは百合子をじっと見つめた。底の見えない暗い色の瞳に、百合子は思わず見惚れ、はっと我に返る。
サトルはきっと、魔性の男なのだ。百合子は思う。三秒間見つめ合うだけで、相手の女を恋の魔法にかけてしまう、王子様とは違う、危険な魅力の男。
文也のことしか眼中にない自分でさえ、惑わせるほどなのだから。
「百合子さんが可哀想だから。それじゃダメかな」
「……ダメじゃないわ。嬉しい」
夢見心地になるのは、きっと酒のせいだ。いつの間にかまた、飲みすぎていたらしい。
甘い液体を飲み干して、百合子は蕩けた笑みを浮かべた。
「しかし、百合子さんやそのいけ好かない女を夢中にさせる、浅倉って男は、どんな人なの? 教えてよ」
サトルの提案に、百合子はぱっと饒舌になる。文也の素敵なところなんて、数えきれないほどある。
喋り始めてから、百合子は、はたと思い当たった。
そういえば、私サトルくんに、浅倉くんの名前、教えたかしら。
記憶にはなかったが、おそらく泥酔して失恋話をしたときに、無意識のうちに名前を出していたのだろう。
百合子はそう結論づけた。
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