百合子

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 チャンスは翌週、すぐにやってきた。  昼休憩の直前に、課長に割り振られた資料のコピーを、百合子は「私は他にやらなければならないことがあるので」と許可を得て、夏織に回した。  本来、十枚あった資料の原本から、真ん中の二枚を抜き去った状態で夏織には手渡した。ノンブルの入っていないもので、ラッキーだった。どこの誰かは知らないが、作成者に内心で感謝をする。  昼休憩を早めに切り上げて、まだ帰ってきていない課長のデスクにコピーと原本が置いてあるのを確認する。「コピー十部完了しました」と、可愛らしいウサギの付箋が貼られていて、思わず鼻で笑った。  こういうあざとさで男は騙せるのだろうが、女相手ではそうはいかない。  百合子は夏織の仕事を確認するフリで、ぺらぺらとコピーを捲り、頷く。そして何食わぬ顔で原本に手を伸ばし、そっと、抜き取っていた二枚を戻した。  その後、窓口対応をしている百合子の背後では、課長が夏織を叱責しているのが聞こえた。「でも」とか「だって」と言い募ろうとしているのが滑稽だった。  ちらりとそちらを窺うと、夏織と目が合った。一瞬のことだったが、彼女には伝わっただろうか。  そんなことをしたって無駄だ。その男は、私の味方。証拠など掴ませずに、お前に嫌がらせをしてやる。  結果として、直接的に百合子が動いたのは、この一回のみであった。あとは、サトルと打ち合わせをしたとおり、フリーメールを使って苦情を入れる。  年配の女性を装い、「窓口のロングヘアの職員の対応が、気に入らない。すみません、の一言もない」と百合子がメールを入れれば、サトルは「窓口で古河って名札つけてる女に、手を撫でられた」とセクハラ被害を訴えるメールを送り、電話でも同様の訴えを寄越す。  嫌がらせは、じわじわと夏織を苦しめていった。周囲からは、仕事のできない女というレッテルを貼られ、すっかり萎縮してしまっている。  そして実際に、大きな失敗をやらかすのだから、百合子は高笑いしそうになって、手の甲をつねって耐えたほどであった。  そんなある日、百合子は再び、文也に呼び出された。  場所は、完全に振られた記憶もまだ新しい、資料室。だがそこは、嫌な記憶ばかりの場所ではない。  ワイルドな文也の一面を知ることができた場所でもあるのだ。百合子はうっとりと、自分を詰問にかかる文也を見つめていた。 「渡辺さん。夏織さんが、最近元気がないんですけど……何か、心当たりはありませんか?」 「あら。そういえばそうね。最近彼女、失敗が多いみたい」  すらっとぼけて百合子は言う。文也は苦々しい表情で、今度は単刀直入に聞いた。 「質問を変えます。渡辺さんが、何かしているんじゃないですか?」  百合子は目を瞬かせる。 「何かって?」 「嫌がらせとか……」 「しないわよ。あんな風に脅されて……」  百合子が怯えた演技で否定すると、文也はぐっと詰まった。  嫌がらせをしているわけではない。市民の代弁として、メールをしたためているだけなのだから。  人が何を思うかは、その人次第。夏織が普通に業務に臨んでいたとしても、受け取り手によって、印象は変わる。そんなのは、当たり前じゃないか。  大げさな百合子の仕草を、文也は怪しんだのだろう。渡辺さん、と一際大きな声を上げた。  百合子さん、と呼んでほしい。以前のように。  百合子はすっと真顔になって、唇を歪めた。 「だって、証拠、ないでしょう? 私が古河さんに対して、何をしたっていうの?」  フリーメールのアドレスは適当な英数字を組み合わせたもので、かつ、ネットカフェや図書館のパソコンから送信し、データをすぐに削除している。自宅のパソコンや、百合子のスマートフォンには、何も残っていない。  若い男からの苦情の電話と、百合子を結びつけるものはひとつもない。誰も、百合子がサトルという若い男の協力者を得ていることを、知らないのだから。 「私だって死にたくないもの」  わざわざ脅し文句を蒸し返してやれば、怒りを抑えきれないのか、文也が手を挙げた。殴られるのか、と思った百合子は目を瞑ったが、彼の拳は、百合子の頭上の壁を殴る。  百合子は文也の顔を見上げた。これっていわゆる、アレじゃないか。少女漫画で嫌というほど見た。頬に熱が集まって赤くなるのを感じる。 「証拠が出てきたら、そのときは、容赦しません」  低い声でそう言ってから、文也は先に、資料室を退出した。  そんな職場でのやり取りを、百合子は週末のバーで、サトルに興奮気味に語った。 「壁ドンよ、壁ドン! さらっと壁ドンされたの!」  まさか現実で、しかも好きな男にされるなんて思わなかった。  きゃあきゃあと高い声ではしゃぐ百合子に、サトルは最初のうちは、「よかったね」と相手をしていたが、徐々に進まない話に呆れて、「それで? 証拠は、残してないんだよね?」と、自分から話を振った。  百合子は豊満な胸を、さらに膨らませた。 「勿論よ。それに、メールや電話のおかげで、あの女はだいぶ参ってる。勝手に失敗して、本当のクレームも食らってるからね」  いい気味だ。百合子は嘲笑った。  いつになく清々しい気持ちで、グラスを空にした。
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