百合子

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 夏織が退職した。中途半端な季節であったのと、彼女が妊娠しているということを鑑みて、特に送別会は開かれなかった。  元気な子供を産んでくださいね、とか、結婚おめでとう、という明るいメッセージを告げる同僚たちは、どうやら秘密裏に、夏織への花束を用意していたらしい。勿論、百合子には何の打診もなかった。  夏織を陥れるべく、健気に働いていたときの反動だろうか。夏織が妊娠を発表した日から、夏織のことをいまだに敵視しているのだということが、皆にばれてしまった。それ以来、明らかに避けられている節がある。  別にもう、構わなかった。課長に媚びを売る必要もなくなったから、朝早く出勤することも、柄にもなく掃除を一生懸命にすることもない。  ただ、いつもどおりのルーティンワークをこなせば、一日は過ぎていく。住民票を始めとした書類を渡すときですら、百合子の頭を占めているのは、今日は何を食べようかな、ということばかりだった。美味しいものは、決して裏切らない。  夏織という攻撃対象を失い、文也にも無視されている現状で、百合子のストレスを軽減してくれるのは、食事だけだった。  昼休みになり、百合子はまずトイレに行った。手を洗っているときに、ふと鏡を見ると、顎と額に、目立つニキビができている。化粧のノリも悪く、午前中の業務を終えたばかりだというのに、ファンデーションが崩れて毛穴が丸見えだ。  百合子は溜息をついた。メイク直しをするのは面倒だし、どうせ誰も気にしないのだから、このままでいいか。それよりも昼食が優先だ。  ティッシュで鼻の脂だけ拭きとって、百合子はトイレを出て、食堂に向かう。午前中の熟考の結果、今日はカルボナーラを大盛りにして、それから単品でからあげを頼むことにした。  食堂に姿を現した百合子に、職員たちは近づいてこない。ふん、と百合子は鼻で笑う。いいのだ。座席を取るのに困らない。  いただきますもそこそこに、百合子は猛烈な勢いで、スパゲティを啜り始めた。クリーム系のパスタは、蕎麦やラーメンと同じように、音を立てて啜り食べた方が美味しい気がする。近くに座っていた人間が、バタバタと席を立っていった。  昼食の途中だが、百合子の意識は家での夕食を何にしようか、というところに飛んでいた。からあげを食べながら、食堂のも美味しいけれど、母のお手製のも美味しいんだよな、と思う。  実家に帰ろうか。もう文也を連れ込むことなんて、望めないのだから。  そんなことを考えていた百合子は、周囲の空気が変わったことに、気づかなかった。  食べるのを邪魔されるのが最も嫌いな百合子は、背中を叩かれて、「なによもう」と億劫だが振り返り、ぎょっとした。  夏織がいた。退職時よりも、やや腹は膨れたが、頬はこけていて、病的だった。落ちくぼんだ眼孔にはまる目は、鋭く百合子を睨みつけている。  百合子は何も言えなかった。異様な様子に、怖気づいた。触れてはならないタイプの人間だ。突いたら爆発してしまいそうな危うさを孕んでいる。  夏織は腹を愛おしそうに撫で擦った。だが、その顔に母としての愛情は、感じられない。 「私は幸せになるの。愛される妻、可愛い子供の母親として!」  そう叫んだ夏織に、食堂はしんと静まり返った。  自己愛のバケモノ。この女は、どこまでも自分のことしか考えていない。 「何言ってんのよ」  だが、百合子の声は情けなくも震えていた。夏織はぎろりと百合子を睨みつけ、「あんたでしょ! 嫌がらせの手紙を送ってきたのは!」と言う。  百合子は息を呑んだ。嫌がらせの手紙だって? しかも中身は、夏織の支離滅裂な話から鑑みるに、文也の子ではないといった中傷文。  サトルの提案通りだった。まさか、彼が百合子の代わりに実行したとでもいうのだろうか。だが、どうして。 「知らない! 私じゃないわ!」  サトルへの疑惑が頭を巡り、否定するのが一瞬遅れた。それが疑いに信憑性を持たせ、夏織の怒りをますます増大させる。 「しらばっくれないで!」  辺りをつんざくように響いた夏織の声とともに、百合子は痛みを覚えた。最初は手の甲。そして、顔。  何が起きたのかわからなかった。悲鳴を上げたのは、百合子よりも周りで見ていた人間の方が速かった。  じくじくと痛む頬に震える指を這わせるとと、血がついた。どうして自分の顔から、血が流れているのだろう。  夏織の手元に、血のついたカッターが握られているのを見て、百合子はようやく、自分が切りつけられたのだということに気がついて、悲鳴を上げた。 「痛いっ! 痛い痛い痛い! きゃああああ!」  百合子の大きな声は、衆目を集めた。その隙に、加害者である夏織はさっさと逃げ出した。痛い痛いと喚く百合子に、しかし、近づく者は一人としていなかった。  誰もが呆気にとられ、通報しろという声も上がらない。 「うぅ、止まらないよ……」  ぽろぽろと涙を零していると、「渡辺さん!?」と、懐かしさすら感じる、愛しい男の声が聞こえた。騒ぎを聞きつけたのか、それとも誰かが知らせたのか。文也が食堂に駆けつけた。 「あ、浅倉くん、浅倉くん……っ! あ、あの女が……っ、古河夏織が!」  そんな馬鹿な。  彼は辺りを見回した。百合子の証言だけであれば、狂言だと一蹴できたかもしれないが、残念ながら、今回は多くの目撃者がいる。  文也は百合子の怪我の心配をしながらも、周囲の表情から、本当に夏織がこの惨事を引き起こしたのだと理解して青ざめた。 「……まず、百合子さんの怪我の手当を。誰か」  静かな声に、「じゃあ、私が」と手を挙げたのは、百合子とはほとんどかかわりのない部署の女性職員だった。  再び「百合子さん」と呼びかけられた喜びと傷の痛みに震えながら、百合子は出ていこうとする文也の名を呼んだ。 「浅倉くん。どこに行くの」  立ち止まった文也の背に、百合子は傍にいてほしいと祈った。だが、無慈悲なことに彼は、振り返ることすらしなかった。  あんな女、もう愛想を尽かすでしょう、普通。だって、犯罪者なのよ? 「夏織さんを、探しに行きます」 「浅倉くん!」  もう一度呼ぶが、百合子の声はもう、彼には届かない。何の反応も見せずに、文也は颯爽とした足取りで、自分の婚約者を追う。  ああ、どうして。  百合子はわっと声を上げた。  切られた頬の痛みよりも、いないものとして扱われたことが、何よりも悲しく、百合子には痛いことだった。
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