百合子

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 その後、百合子は病院へ行き、診断書をもらった。だが、課長を通じて下されたのは、警察への通報は待てという命令であった。  あんな凶暴な女を野放しにしてはおけない。  百合子は主張したが、上は大きな事件にしたくないのだろう。文也が夏織と百合子の両方を説得して、示談に持ち込んでくれれば、と希望を抱いているのだ。  だが、事件は新たな局面を迎える。  病院帰りに買ったスナック菓子を抱え、百合子は自宅でテレビをつけた。ちょうど夕方のワイドショーの時間で、普段見ることのないアナウンサーが、ニュースを読み上げている。  全国区の番組のため、地元のローカルなニュースが取り上げられることは少ない。ぼんやりと見るとはなしに眺め、一.五リットルのペットボトルに直に口をつけて、コーラを含んだ瞬間、アナウンサーが神妙な顔をして、「次のニュースです。※県S市で……」と読み始めた。  あら、この街じゃない。珍しい。 『……S市の中心街で、午後二時頃、妊婦が刺殺されるというショッキングな事件がありました』  夏織による傷害事件以外にも、近くでこんな事件が起きていたなんて。S市の中心街といえば、市役所からそれほど離れていない。歩いて行ける。 「いやだなあ」  と独り言を言う。それでもまだ、他人事だった。アナウンサーの声とともに、被害女性の名がテロップに載るまでは。 『死亡したのは、古河夏織さん、二十八歳。彼女は妊娠六か月の妊婦で、今月末、二十九歳の誕生日に、婚約者と入籍をする予定でした』  百合子はショックを受けて、テレビを食い入るように見つめた。アナウンサーは淡々と、しかし興味を煽るように事件を報道する。  目撃者も多い、白昼の事件だった。犯行時刻から推察するに、百合子を傷つけて市役所から逃走してからすぐである。  犯人の名前もテロップに流れた。無職・長谷川彰、三十三歳。知らない男だ。  だが、アナウンサーが「元交際相手」と枕詞をつけたことで、百合子はあの日、夏織と会っていた男の顔を、鮮明に思い出した。 『痴情のもつれが原因とみて、警察は捜査を進めています……』  テレビから、そう聞こえてきて、百合子は唇を笑み曲げた。  そうか。やはり、あの男と切れていなかったのだ。どうにかして、男は夏織の住む場所を知った。そして押し問答の末に、殺したのだろう。  自分の推測が当たっていたことに、百合子は高笑いした。スマートフォンが震えている。きっと、この事件について誰かが連絡してきたのだろう。確認する気にもなれなかった。  いい気味だと爽快感すら味わっていた百合子だが、コメンテーターの言葉に、笑いを引っ込めた。 『古河さんは、婚約者の男性の目の前で……なんて惨い』  文也の目の前で殺されたというのか、あの女は。夏織には一切同情しないが、文也があまりにも可哀想だ。  百合子はスマートフォンを取り上げて、文也の番号を呼び出した。電源が切られている旨のアナウンスがされて、百合子は小さく舌打ちする。  百合子は胸の内に、使命感が沸き上がるのを感じた。めぼしいニュースがないところに起きた、大事件の当事者だ。メディアに追い回されて、泣くに泣けずにいるかもしれない。  あなたの力になりたい。慰めてあげたい。抱き締めて、私の胸で思い切り泣いてほしい。  その気持ちに、打算がないとは言い切れない。弱った男を自分のものにしたい。  百合子は電話を諦めて、メッセージを送った。  返信は深夜まで待ってみたが、なかった。
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