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四月の頭まで、市民課の繁忙期は続いていた。文也は福祉課所属で、五階で業務に励んでいるので、平日はメッセージのやり取りだけ。
文字での文也は、直接話すときよりも少し砕けて、いい意味で男くさい。スタンプをほとんど所持していないらしく、夏織がふざけた絵柄のものをプレゼントすると、嬉しそうに連打してくるようになった。
ずっと年下の男を飼う有閑マダムって、こんな気持ちなのかしら、とむずむずした。
本当は、昼休みに食堂で話すことができたら、と思う。連絡先を知っているだけで、個別に他愛のないおしゃべりをしたことがなかったことを思えば、ずいぶんな進歩だが、恋人同士としては味気ない。
しかし、夏織は文也と付き合っていることを、職場の人間には、まだ隠しておきたかった。文也もそれに同意した。
「ここ、いいかしら」
Aランチを口に運ぶ夏織の向かい側の椅子を引いたのは、同じ市民課の先輩である、渡辺百合子だった。
箸が皿に当たり、カツン、と音が鳴った。夏織はさっと食堂全体に視線を行き渡らせて、文也がいないことを確認してから、「ええ、大丈夫ですよ」と答えた。
「ありがと。今日も忙しいわよねえ」
よく言えば豊満な身体が、パイプ椅子を軋ませた。壊れるのではと心配しつつ、夏織は当たり障りのない同意を示した。
大盛りのチャーハンとトッピング全載せのラーメンを、百合子は交互に食べていく。安いのがとりえの食堂だが、これだけ大量に注文すれば、そこそこの値段にはなる。
とりわけ炭水化物×炭水化物の組み合わせは、ベスト体型を維持しようと努力している夏織にとっては、視界に入るだけで暴力だった。
百合子はズルズルと音を立てて麺をすする。その唇は真っ赤に塗られているが、彼女の肌の色とは合っておらず、ぞわっとする。
食べているうちに暑くなってきたのか、百合子のこめかみを汗が伝い、ラーメンスープの中に落ちるのを目撃してしまった。
気分が悪くなって、夏織は箸を置いた。食欲は消え失せていた。湯飲みを手にして、ねばつく口内の浄化を試みる。
「あ、お疲れ様ですぅ。渡辺さん、古河さん。ここ、座ってもいいですかぁ?」
夏織が茶を口にして、心を落ち着けようと努めていると、この四月に新卒で入ったばかりの後輩が、百合子に声をかけていた。先日辞めていった女と、顔以外はよく似ている。
「もちろん。今日はお弁当じゃないのね」
「はい。ママが寝坊しちゃってぇ」
語尾を伸ばして、自分の母親のことを「ママ」と呼ぶ。夏織が鼻白んだのに気づかず、ぺちゃくちゃとお喋りを続ける女は、まだ学生気分である。
長い爪は、派手なラメ入りだった。勿論、市民と接することの多い係では、ご法度だ。
だが、甲高い鼻にかかった声に、上司も、クレームをつけるのが趣味の近所の爺連中も骨抜きにされてしまっている。
若さを全面に押し出した短い丈のワンピースを、苦々しく思っているのは夏織たち、普段地味にするように心掛けている女性職員と、中年以上の女性の来庁者だ。
羨ましいなら、あなた方も出してごらんなさい、とばかりに曝される脚を、夏織は注意する気力もなくしていた。
どうせ、この子もすぐ辞める。諦念を抱えつつ、指導をしている今日この頃である。
彼女は、隣に座る百合子の半分くらいの量を、小さな口で食べ始めた。そういうあざとい様子が、鼻につく。
「そういえば、古河さんって」
「なに?」
ピーチクパーチク、小鳥のようによくさえずる口だ。
突然くちばしを向けられて、夏織はとっさに取り繕うこともできず、低い声が出た。彼女は気にした風ではない。女に不機嫌な反応をされることに、慣れている。
「福祉課の浅倉さんとぉ、付き合ってるんですかぁ?」
口の中に含んだ水分を、夏織はゆっくりと飲み下した。せき込むな。むせたら、動揺したと見抜かれる。
どうにかして、ごまかせないだろうか。夏織が考えている間も、後輩はペラペラと喋り続ける。
「こないだ彼氏とぉ、隣の県の遊園地行ったんですよぉ。そのとき、古河さんと浅倉さんが一緒にいるの、見かけてぇ」
市内・県内は誰かに見つけられる可能性が高いからと、デートは県外で、現地集合・解散だった。
人の多いテーマパークだ。人目につかないだろうと言って、夏織は文也と自分から手を繋いだ。そのくらい積極的にならなければ、この男は何もしてこない。
「声かけようかなって思ったんですけどぉ。観覧車乗るのに並んでるとき、キスしてたじゃないですかぁ。声かけない方がいいかなぁって」
キスをしたのも、夏織の方からだった。中学生レベルの健全なデートに我慢ならず、やることやったんだからいいでしょう、と一気に彼を大人へと引き上げたのだ。あわよくば、帰りにホテルに誘って、きちんと身体の相性を確かめたかった。
案の定真っ赤になった。童貞だった彼は、キスもまた、あまり経験がないのだろう。「可愛い」とからかえば、ムキになった様子で、強く手を握っていた。ずっと湿っていた文也の手のひらからは、汗が引いていた。覚悟ができたのだろう。
結局セックスはしなかったが、関係を進展することはできたと思う。
キスそのものについては、後悔していない。けれど、その現場を見られていたのは、大きな失態であった。
夏織は目を合わせないようにして、百合子の方を見た。
のっぺりとした白い紙を貼りつけたような表情の百合子は、唇をぶるぶると震わせている。夏織のことを直視していない隙に、そそくさと視線を外し、夏織は「人違いじゃないかしら」と立ち上がった。ランチはまだ、三分の一ほど残っていたが、返却台に戻した。
誰にばれようとも、この女にだけは、知られてはならなかった。
夏織はスマートフォンを片手に、食堂を立ち去った。
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